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本荘八幡宮(ほんじょうはちまんぐう)は、岡山県倉敷市児島通生(こじまかよう)にある神社。祭神は品陀別命、足仲彦命、息長帯比売命。社格は郷社。 == 概要 == 社伝によれば、大宝元年(701年)に行基が神宮寺八幡院(現・通生山般若院)を開き、その鎮守として宇佐神宮より勧請したのが始まりと言われる。児島通生十二ヶ村の総鎮守となった。神宮寺の社僧が奉仕した。 平安時代初期の延暦23年(804年)坂上田村麻呂が瑜伽山の賊徒を平定し報賽として神封150戸を寄進したとされる〔神宮寺般若院旧記〕。鎌倉時代中期の建治2年(1276年)には熊野山の神領が分与された〔尊瀧院文書〕。弘安2年(1279年)には社領80石の朱印が下された。 室町時代中期の文明14年(1482年)近隣の本太城主源政縄・政吉が当社を襲撃し末社を破却した。いよいよ本殿に取り掛かろうとしたとき社殿が揺れたため恐れて退散し、危うく破却の難を逃れたという伝承が残っている。 戦国時代の天正3年(1575年)毛利軍の常山城攻略の前哨戦として当社近くにあった湊山城を吉川元春・小早川隆景連合軍が攻撃した。その際に当社も焼亡し神庫のみが残ったと言われている。焼亡から半年後には再建に着手し天正5年(1577年)には復興した。 江戸時代初期の慶長10年(1605年)下津井城主池田長政が社領25石を寄進した。寛文6年(1666年)社領は当社領15石、神宮寺領10石に分割された。以後、岡山藩主の崇敬社となり、宝永7年(1710年)から明治2年(1869年)に至るまで9通の岡山藩主社領寄進状が残されている。 明治7年(1874年)郷社に列した。第二次世界大戦後の昭和27年(1952年)宗教法人となった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「本荘八幡宮」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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