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本薬師寺(もとやくしじ)は、奈良県橿原市の東南に位置する藤原京の薬師寺と呼ばれた寺院〔上野 (2010)、112頁〕。後に持統天皇となる皇后の病気平癒を祈って天武天皇が建立を誓願した官寺である。平城京遷都で薬師寺が西ノ京に移ると、西ノ京の「薬師寺」と区別するために「本薬師寺」と称されるようになった〔。本薬師寺は「元薬師寺」とも記されるほか、平城京に造営された薬師寺(平城京薬師寺)に対して、「藤原京薬師寺」などとも呼ばれる〔。これまでの発掘調査により、およそ11世紀初頭まで存続していたことが認められている〔上野 (2010)、126頁〕。 現在は、橿原市城殿町(きどのちょう)の医王院(白鳳山醫王院)の境内に、伽藍の遺構のうち金堂の礎石の一部が残る。また、東塔や西塔の土壇および心礎などの礎石が周囲の水田に残存しており、本薬師寺跡として特別史跡に指定されている〔。 == 歴史 == * 天武天皇9年(680年)11月、天武天皇により発願される〔。 :『日本書紀』天武天皇9年11月12日条に、病気になった皇后(鵜野讚良皇女、後の持統天皇)のために誓願をたて、薬師寺を建立することとなり、百人の僧を得度(出家)させたところ、病気は平癒されたとあり、「薬師寺東塔檫銘」(薬師寺東塔の相輪の檫管〈さつかん〉に刻まれた銘文)にも同じ内容の記述が見られる〔〔東野治之「文献史料からみた薬師寺」、『薬師寺白鳳時代の謎を解く』 (2008)〕。 * 天武天皇11年(682年)頃までに着工されたという。 : 『七大寺年表』および『僧綱補任抄出』に、天武天皇11年、薬師寺を造るとある。発掘調査による土器や金堂の瓦の文様より、天武天皇末期に着工されたことが認められる〔。 * 天武天皇15年・朱鳥元年(686年)に天武天皇が亡くなり、持統天皇が引き継ぐ。 * 持統天皇2年(688年)頃までに伽藍の一部(金堂)が整う〔。 : 『日本書紀』持統天皇2年1月8日に、無遮大会(むしゃだいえ、かぎりなきおがみ)が薬師寺で行われたとあり〔、金堂の完成による開催であったとされる〔〔鈴木嘉吉「薬師寺新移建論 - 西塔は移建だった」、『薬師寺白鳳時代の謎を解く』 (2008)〕。また発掘において金堂が最初に建立されたことが確認されている〔。 * 文武天皇2年(698年)にほぼ完成したといわれる〔。 : 『続日本紀』文武天皇2年10月に、薬師寺の造営はほぼ完了して衆僧を寺に住わせるとある〔〔。また、東塔の建築部材とされる木材の伐採が年輪年代測定により695年(持統9年)であったことが確認され、伽藍が完成したとされる年代と一致する〔〔。ただし、大宝 (日本)元年(701年)6月に、造薬師寺司の任命を記していることから〔〔、造営は8世紀まで行われていたと考えられる〔。 * 養老2年(718年)、薬師寺が和銅3年(710年)の平城京遷都に伴い西ノ京に移る〔。 : 『薬師寺縁起』には、養老2年、平城京に伽藍を移すとあり、従来は本薬師寺の伽藍を西ノ京の薬師寺に移築したとする説が有力であったが〔、今日では伽藍・本尊とも、それぞれの研究により本薬師寺からそのまま移されたものではないとする説が有力である〔。 * その後も、11世紀まで存続が確認できる。 : 『中右記』や『左経記』などによると、本薬師寺は11世紀まで存続していたとされ〔、11世紀初頭まで存続していたという結果が発掘調査により得られている〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「本薬師寺」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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