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本部 泰(もとべ やすし〔 / ゆたか〔、1843年(天保14年)- 1915年(大正4年)3月〔『愛媛県史 人物』630-631頁。〕)は、幕末の鳥取藩士、明治期の内務官僚。官選愛媛県知事。初名・勇之介〔『三百藩家臣人名事典 5』355頁。〕。 ==経歴== 因幡国邑美郡馬場町(現鳥取県鳥取市)〔で、鳥取藩士・本部平之丞元旦の嗣子として生まれる〔。文久2年8月(1861年)旗本幌組となり、慶応元年12月(1866年)調練世話役に就任〔。 文久3年8月17日(1863年9月29日)本圀寺事件で義理の叔父・黒部権之助らが暗殺され、その報復として慶応2年8月(1866年)に黒部の遺族らが出雲国手結浦(現島根県松江市)で暗殺者の一部を襲撃した事件に参加し閉門を命ぜられた〔。慶応3年5月(1867年)に赦免となる〔。 明治3年(1870年)鳥取藩大監察・大属となる。その後、明治政府に出仕し、鳥取県六等警部に就任。西南戦争では陸軍省出仕・新撰旅団付として出征。以後、邑美・法美・岩井郡長、鳥取県少書記官、福井県少書記官、同大書記官、同書記官、宮城県書記官、京都府書記官などを歴任し、1897年に退官した〔〔。 退官後、帰郷し1899年7月に結成された帝国党に参加。1900年4月27日、第2次山縣内閣により愛媛県知事に登用された。県政の中心を土木・教育・勧業に置き、継続土木事業の延長、新しい十カ年継続土木事業計画の立案、県立商業学校などの開設、農事試験場・水産試験場・工業試験場の新設などを推進した〔〔『新編日本の歴代知事』917頁。〕。1904年1月25日、知事を休職〔『官報』第6168号、明治37年1月26日。〕。 その後に帰郷し、武徳殿・因伯尚徳会演舞場で剣術、弓術の指導などを行った〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「本部泰」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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