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本郷 功次郎(ほんごう こうじろう、1938年2月15日 - 2013年2月14日)は、日本の俳優。岡山県出身。岡山県立岡山朝日高等学校、立教大学文学部英米文学科を卒業。妻は古城都。子は俳優の本郷慎一郎。 == 来歴・人物 == 岡山市に金物屋の次男として生まれる。大学では柔道部に所属。叔母が黒帯を締めた本郷の写真をいつも持ち歩いていて、たまたま叔父の友人だった大映の重役・松山英夫の目に留まることとなった。大映では藤田進や菅原謙二に続く柔道スターを探していたため、松山がその写真を叔母から借りて、社長の永田雅一に見せたところ「すぐに連れてこい」となった。本郷は冗談めかしてその時のことを「拉致された」と笑っている。大映本社で松山と監督・市川崑に面接されたが、本郷は市川を知らず俳優になるつもりもなかったので、「日本映画はつまらないから観ません」とはっきり断ったが「どうしてもやってくれ」と説得され、最終的に「柔道映画なら仕方が無い」と引き受けたという。大映演技研究所に入所し、第12期大映ニューフェイスとして1958年に入社、『講道館に陽は上る』(1959年)で菅原謙二に次ぐ準主役として映画デビュー。柔道家の役はこのほかにも千葉真一主演映画『空手バカ一代』(1977年)で出演している。 『講道館に陽は上る』で行われた若草山のロケーション撮影では、立ち回りのシーンのために地面にマットが何枚も敷かれた。これを見た本郷が「それ、何に使うんですか」と訪ね、「ここに投げられるんだ」と言われたので「下は土だからそんなものいらない」と答えた。これを聞いた監督の田坂勝彦が狂喜して、菅原から連続7本投げ続けられる場面をワンカットで撮影。それまでの柔道映画はすべて吹き替えで、俳優が実際に投げられる例は無かった。これを見た永田も大喜びし、「この男をスターにしろ!」と号令をかけた。こういったいきさつで一躍スターとして売り出されることとなったが、本郷自身は「スターになってくれと言われてなったが、自分自身では努力も何もしていない、自分では俳優への憧れどころか別になりたくも何ともなかったんです」と語っている。 永田の声がかりに加え、当時の大映は若手男性スターが不足していたこともあり、その後立て続けに映画出演をこなし、時代劇も現代劇もこなせる若手スターとして売り出される。1961年には日本初の70mm映画『釈迦』の主演に選ばれるまでになる。同じ大映の先輩・市川雷蔵には弟のようにかわいがられ、共演も多く時代劇の所作を教わった。まだキャリアの浅いうちに主演が決まり、どうしようかと悩んでいると、市川崑には「まず台本を覚えてしまえ」と助言を受け、勝新太郎には「台本なんて覚えなくていい。まず役に入ること」と正反対の助言を受けて混乱したという。「大映時代は目が回るような忙しさで、撮影が押してくるとスタッフとともに楽屋でザコ寝、翌早朝にロケ、終わるとその足で即次の撮影現場へ向かうことも珍しくなかった」と当時を振り返る。 文芸映画志向が強く、会社から『大怪獣決闘 ガメラ対バルゴン』(1966年)への主演を通達された際には受け入れられず、雲隠れして何日もホテルに泊り込んでいた。「他の俳優は蜘蛛の子を散らすように逃げた」そうで、「私だけが捕まってしまった」と笑っている。仮病でごまかそうと、大阪のホテルから「僕は重病なんです」と本社に電話したところ、「ホントに重病なら」と、本社の制作部長と課長が見舞いに来ることになった。慌てた本郷は知り合いの医者に電話して看護婦を呼び、栄養剤を注射してもらって布団を被り、重篤な芝居を打った。これを見た課長が枕元で「あきまへんわ、本郷の病気は本物ですわ」と電話したという。が「治るまで待つから」と言われ、最終的に説得されて出演することとなった。続いて『大魔神怒る』、『大怪獣空中戦 ガメラ対ギャオス』、『ガメラ対宇宙怪獣バイラス』と、「子供の映画」への出演が続き、だいぶ恨んだというが、平成になって『ガメラ 大怪獣空中決戦』に出演。「あの頃ガメラをやってた本郷さんに出てもらおうって話が来た」と聞いたときは嬉しかったといい、かつての自分を思い返し、感慨無量の想いだったと語っている。これ以前は自分のプロフィールに「ガメラ映画」のタイトルは入れていなかったが、会う人に必ず「『ガメラ』や『大魔神』が入ってませんね」と言われるので、以後は入れることにした。「まさかこんなに時代に残るとは思ってもみませんでした。今ではもう財産になってしまっていますからね」と語っている。 1969年まで大映の主演スターとして活躍した後は、他社の映画やテレビドラマに活動の場を広げる。『特捜最前線』の橘警部役は9年間にわたるレギュラー出演となり、本郷の代表作の1つとなった。また大河ドラマ『武田信玄』では甘利虎泰に扮して出演した。 2004年、突然の脳梗塞で倒れ意識不明の重体となったが、リハビリを継続し奇跡的に回復。しかし、これ以降表舞台から退き、事実上引退状態だった。2013年2月14日、心不全のため死去。。〔「特捜最前線」の橘刑事、本郷功次郎さん死去 YOMIURI ONLINE 読売新聞 2013年2月14日〕 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「本郷功次郎」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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