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本間 勝(ほんま まさる、1939年5月1日 - )は愛知県岡崎市出身の元プロ野球選手。 == 来歴・人物 == 中京商業(現:中京大中京高校)では2年生の時、1956年の春夏の甲子園に連続出場。春の選抜は安井勝(立大-丸善石油)の控え投手で、決勝では県岐阜商を破り優勝する〔「選抜高等学校野球大会60年史」毎日新聞社編 1989年〕が、本間の登板機会はなかった。夏の選手権では安井との二本柱に成長、準々決勝で米子東高に敗れる〔「全国高等学校野球選手権大会70年史」朝日新聞社編 1989年〕が、2試合にリリーフとして登板した。 同年秋の兵庫国体にも出場。決勝では先発を任され、甲子園で敗れた米子東高を、延長10回の熱戦の末1-0で降し優勝を飾る。この時の捕手は鈴木孝雄であった。翌1957年も同期の小川敏明とバッテリーを組み、夏の甲子園県予選決勝に進出するが、津島商工に敗退。 高校の1年先輩に星山晋徳がおり、本間と星山の二人併せて、1957年11月8日に大阪タイガースへの入団が発表された。プロ3年目のに先発・中継ぎ双方併せて47試合に登板。初勝利を含む13勝を挙げる。翌も8勝を挙げたが、13敗を喫した。は12試合の登板に終わったが、は38試合に登板、5勝を挙げた。以降は、中継ぎでの登板が大部分となる。同年には、王貞治に4打席連続本塁打の4本目を打たれた。しかし、本間は王との相性はよく、王と53打席対戦して被本塁打はこの1本のみであった〔。は13試合の登板に終わり、オフに西鉄ライオンズに安部和春とのトレードで移籍。移籍一年目のは主に中継ぎとして登板し、防御率1点台を記録した。しかしは僅か4試合の登板に終わり、同年オフに現役を引退した。 引退後は14年間新聞記者として活動〔。1982年に阪神のフロント入りし、営業・広報などを担当〔。2002年に広報部長を退任した。阪神タイガースOB会副会長を務めている。2009年1月から『月刊タイガース』で「本間勝交遊録」を連載中。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「本間勝」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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