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本間 勲(ほんま いさお、1981年4月19日 - )は、新潟県北蒲原郡中条町(現・胎内市)出身のプロサッカー選手。Jリーグ・栃木SC所属。ポジションは守備的ミッドフィールダー。 2000年のプロデビューから2014年までの15年をアルビレックス新潟一筋で過ごし、チームの象徴として「ミスターアルビレックス」と呼ばれた。 == 来歴 == === アルビレックス新潟 === 8歳からサッカーを始め、地元の中条サッカースポーツ少年団に入団。胎内市立中条中学校を経て、千葉県の習志野高校へ。習志野高校では1998年に千葉県大会で優勝し、全国高等学校サッカー選手権大会に出場している。県大会では後にチームメイトとなる市立船橋高校の黒河貴矢にPKを止められたこともあった。 高校卒業後、J2・アルビレックス新潟に入団。加入当初は右サイドを主戦場とする攻撃的ミッドフィールダーで、ルーキーイヤーは29試合に出場して3得点を記録した。2000年5月2日の水戸ホーリーホック戦で初出場、3日後に行われた湘南ベルマーレ戦で初得点を記録した。2年目から徐々に出番を減らし、当時の反町康治監督のチーム編成などの事情ももあり、守備的なポジションであるボランチにコンバートされる。2002年に3カ月の短期ブラジル留学を経験。留学期間はFIFAワールドカップの開催時期で、本人はあまり乗り気ではなかった〔2012年4月26日 モーニング21号 講談社〕。 新潟は2004年にJ1へ昇格し、本間は2005年にレギュラーポジションを獲得した。全国的にはまだ無名だったが、鹿島アントラーズの新潟戦前のミーティングでトニーニョ・セレーゾが「とにかくこいつを止めろ」と強調したため、2006年途中、鹿島から新潟に移籍してきた内田潤は移籍前から本間のことを知っていたと話している〔サッカーマガジン 2009年11月17日号 サカピポ〕。 2007年からゲームキャプテンになり、2008年には中盤の要、司令塔と呼ばれる存在になった。同年7月に第一子が誕生〔【年末企画:2008年各クラブ5大ニュース!】アルビレックス新潟編 〕。2009年は当時監督の鈴木淳が構築した4-3-3システムの1ボランチとして、中盤の底で存在感を見せた。京都サンガ監督(当時)の加藤久は、攻撃的なチームの中にあって「ディフェンダーの前で上手くスペースを消している」と、本間の守備面に高評価を与えた〔武田賢宗 【J1:第5節 京都 vs 新潟】プレビュー:首位・新潟を西京極で迎え撃つ! 爆発力ある攻撃で新潟の守備を突き崩すか注目の一戦! J's GOAL 翌2010年から正式にチームキャプテンとなり、J2時代を経験したメンバーは本間ただ一人となった。本間の新潟出身の生え抜きという経歴もあり、メディアでは「ミスター・アルビレックス」と紹介されるようになった。本間は監督が黒崎久志、柳下正明に変わった後もポジションを守り、2011年にはJ1リーグ戦全試合に出場した。2011年9月24日、J1第27節ジュビロ磐田戦にてスタメン出場し、J1通算200試合出場を達成。2012年にはJリーグ通算300試合出場に到達した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「本間勲」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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