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建文帝(けんぶんてい)は、明朝の第2代皇帝。諱は允炆(いんぶん)。靖難の変により永楽帝に帝位を簒奪されたため、明代には皇帝としての在位が否定されていた。日本ではその在位中の年号「建文」から一般的に建文帝と称される。 == 生涯 == 洪武帝の長子で皇太子であった朱標(懿文太子、興宗)の次男として生まれた。生母は朱標の側室・呂氏。洪武25年(1392年)、父・朱標が死去したため、皇太孫に立てられた。洪武31年(1398年)、祖父の崩御により第2代皇帝に即位した。即位後、その地位を確固たるものとするため側近の方孝孺らとともに皇族の力を弱めることを画策し、周王・、斉王・朱榑、代王・朱桂をそれぞれ庶民に落とし、湘王・朱柏を焼身自殺させ、岷王・朱楩を漳州に流した。 建文帝にとっての最大の政敵は燕王・朱棣であり、上記の諸王を廃したのは燕王を粛清するための事前準備であった。これに危機感を持った朱棣は、君側の奸である方孝孺らを殺して朝廷を靖めると称し、軍を起こした(靖難の変)。兵力では燕王軍の数万に対し、南京の官軍は50万超と圧倒的に勝っていた。しかし、燕王軍は漠北で明朝に対峙するタタール(北元)とたびたび戦ってきた実戦経験豊かな朱棣自身が指揮を取ったのに対し、官軍は有能な将軍を欠いていた。これは洪武帝が有力な部下に皇位を簒奪されるのを恐れ、藍玉ら建国以来の有能な将軍を次々に誅殺していたためである。 しかし指揮官の質だけでは兵力差を覆すには至らず、内乱は長引いた。建文帝はその元号からもわかるように文治政策を重視し、出陣する将軍に対して叔父殺しの汚名を自身に与えぬようにすることと訓示したり、戦闘中に朱棣が死んだという誤報を信じて将軍を南京に召還したりした。このような状態であり、官軍の軍事的な優位は確立しなかったどころか、逆に離反者を招く始末だったとされる。 建文5年(1402年)、燕王軍は南京を陥落させ、建文帝はその際の混乱により行方不明となった。当時は僧に変装して逃亡したとも言われている(先帝の洪武帝から「身の危険があったときに開けるように」と渡された箱を、このとき開けると剃刀と金子が入っていたという)。ただし、逃亡説は伝説的なものに近く、殺されたか自殺したと考えるのが通説である。享年24。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「建文帝」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Jianwen Emperor 」があります。 スポンサード リンク
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