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朱 友珪(しゅ ゆうけい)は、五代後梁の第2代皇帝。 == 生涯 == === 帝位簒奪 === 光啓年間(885年 - 888年)、朱温(後の朱全忠)が亳州に向かった際に召した妓娼が生んだ庶子である。彼のすぐ上の兄は早世したために名は不詳である(888年生まれは異説あり)。誕生した後に父に迎えられた友珪は、少年時代から優れた素質を見せていた長兄の朱友裕とよく比較されて、父から露骨に疎まれたという。そのために、友珪は粗暴で残忍な性格に育ったと言われている。 開平元年(907年)に郢王に封じられた。開平4年(910年)に左右控鶴都指揮使に任じられ、諸軍都虞侯も兼務したが、後唐の軍勢との戦いで敗戦を相次いだため、激怒した父から「私の息子は豚犬以下だ」と罵られた。 後に父が仮子の博王朱友文に帝位を譲ることを考慮し、実子の友珪を萊州刺史として左遷しようとした〔駒田『新十八史略5』、P250〕。この後継工作を朱全忠の側に侍っていた夫人の張氏から全て聞かされた朱友珪は先手を打って、朱全忠の重臣に対する非道な行いに不満と恐怖を抱いていた左竜虎軍(近衛軍)を味方に引き入れ、500人の兵を率いて宮中に乱入し、乾化2年(912年)に朱全忠を暗殺した〔駒田『新十八史略5』、P251〕。 朱友珪はさらに朱全忠暗殺の責任を全て朱友文に被せて妻子共々に処刑した〔駒田『新十八史略5』、P252〕。そして偽詔を発して皇帝に即位した〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「朱友珪」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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