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朱 培徳(しゅ ばいとく)は中華民国の軍人。字は益之。当初は滇軍(雲南軍)に属し、後に孫文(孫中山)配下となる。国民革命軍にも属した。 == 事跡 == === 民初の活動 === 幼い頃から騎射・武術をたしなんでいた。1908年(光緒34年)に雲南陸軍第19鎮随営学堂に入学する。2年後に雲南陸軍講武堂に転入した。在学中に中国同盟会に加入している。雲南辛亥革命(昆明重九起義)が勃発すると、朱培徳も学生軍に加わって、革命派として戦った。中華民国成立後は、雲南軍(滇軍)の一員として軍歴を重ねていく。 1915年(民国4年)12月の護国戦争勃発に際して、朱培徳は当初蔡鍔率いる護国軍第1軍に属したが、まもなく李烈鈞率いる第2軍に移り、広東方面で戦闘に参加した。護国戦争終結後、朱は第2軍を改組した駐粤滇軍第7混成旅旅長として、引き続き広州に駐屯している。1917年(民国6年)8月、孫文(孫中山)が護法運動を開始すると、朱もこれに参加した。朱は北京政府軍との戦いで軍功をあげ、滇軍第4師師長兼広州衛戌司令に昇進している。 1920年(民国9年)2月、滇軍内部で唐継尭と李根源の間で権力闘争が発生する。朱培徳は唐を支持したが、李の妨害にあって朱は一時滇軍を追われることになる。1921年(民国10年)6月、孫文の広西省進攻に参加するため、朱は軍勢を率いて孫の下に駆けつけた。以後、朱は唐の指導を離れて孫に与し、同年12月には中国国民党に加入している。 1922年(民国11年)6月、陳炯明が孫文に叛逆すると、朱培徳は孫を守って戦う。その後も陳討伐などで活躍し、翌年には大本営参軍長兼代理軍政部長に就任した。1924年(民国13年)9月には、江西省で北京政府軍を撃破している。翌年3月に北京で孫が死去すると、滇軍出身の楊希閔らが国民党に反旗を翻そうとする。朱は楊らを討伐、掃討することに貢献した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「朱培徳」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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