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朱 宸濠(しゅ しんごう、? - 1521年1月12日)は、明の皇族。朱元璋の第17子の寧王朱権の5世孫で寧王に封じられていたが、寧王の乱を起こし、皇位を簒奪しようとするも贛南巡撫の王守仁(王陽明)に敗れ処刑された。 == 生涯 == 弘治7年(1494年)10月に寧王を継ぎ、南昌に封じられた。 朱宸濠の祖先の朱権は、靖難の変において燕王(後の永楽帝)に協力し、成功の暁には燕王と国土を分割する約束を結んでいたとされるが、燕王は即位後にこれを反故にし、朱権を改めて南昌に封じて監視を加えた。子孫の朱宸濠はこのことに大いに不満を抱いていたという。 朱宸濠は気宇壮大で朝廷に対する放言も多く、妻の婁妃が幾度も諌めたが聞き入れられなかった。正徳12年(1517年)3月より佛郎機銃を密造し〔『刑部問寧王案』〕、正徳14年(1519年)6月14日に南昌で挙兵した。6万と称する軍を九江の下流に沿って進ませ、南京を攻略しようと目論んだが、贛南巡撫、右僉都御史の王守仁と吉安知府の伍文定らによって、35日間で鎮圧された。 しかし、親征を好んだ正徳帝の側近である嬖幸の提言により、王守仁によって捕えられた朱宸濠を鄱陽湖の裏手で解放させ、親征中の皇帝の指揮によって改めて生け捕りにし、皇帝の威信を示そうという茶番に利用された。 朱宸濠は宦官の張永に引き渡され、正徳帝の軍と共に北京近郊の通州に連行後、その地で処刑され、遺骸は焼き捨てられた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「朱宸濠」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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