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朱序(しゅ じょ、生年不詳 - 393年)は、中国の東晋の軍人。字は次倫。本貫は義陽郡。 == 経歴 == 西蛮校尉・益州刺史を歴任した朱燾の子として生まれた。鷹揚将軍・江夏国相に累進した。365年(興寧3年)、梁州刺史の司馬勲が反乱を起こし、成都王を自称して、益州刺史の周楚を成都に包囲した。朱序は桓温の命により征討都護として成都の救援に向かった。366年(太和元年)、成都で司馬勲を撃破し、これを捕らえて斬った。功績により征虜将軍の号を受け、襄平子に封じられた。369年(太和4年)、前燕の将軍の傅末波を林渚で撃破した。後に兗州刺史として出向した。374年(寧康2年)、長城県の銭弘が原郷山にこもって反抗すると、朱序は中軍司馬・呉興郡太守となって、銭弘を撃破し捕らえた。反乱が鎮圧されると、再び兗州に戻った。 377年(太元2年)、使持節・監沔中諸軍事・南中郎将・梁州刺史に転じ、襄陽に駐屯した。前秦の苻丕が7万の兵を率いて襄陽に進攻してきた。朱序は城を固く守って包囲は長期に及んだ。朱序の母の韓氏が襄陽城の西北角が弱いことを看破し、100人あまりの婢と城中の女子を動員して20丈あまりの城郭を築き、「夫人城」と呼ばれた。苻丕率いる秦軍は苦戦して、兵糧に不足を来たし、ひとたび撤退した。抗戦に疲れていた襄陽の人心は緩み、守備はおろそかになった。379年(太元4年)、督護の李伯護がひそかに秦軍と連絡して呼応し、襄陽は陥落して、朱序は捕らえられた。前秦の苻堅は李伯護を殺して、不忠を咎める姿勢を示した。朱序は逃亡して東晋に帰国しようと、宜陽に潜伏し、夏揆の家に匿われた。疑いの目が夏揆に向けられたため、朱序は苻暉のもとに出頭して自首した。苻堅は不問にして、朱序を尚書として任用した。 383年(太元8年)、前秦の苻堅は100万を称する大軍を動員して東晋に侵攻し、東晋の謝石がこれを迎え撃つこととなった。ときに苻堅の本隊は項城にあり、苻融が30万を率いて先行していた。苻堅は謝石に示威し、降伏をうながすため、朱序を派遣した。しかし朱序は苻堅の意に反して、前秦の大軍が合流する前に攻撃するべきだと、謝石に勧めた。そこで謝石は謝琰に勇士8000人を選抜させて淝水を渡って挑戦させた。苻堅は本隊をわずかに後退させたが、朱序がその軍の後ろにおり、「堅敗れたり」と触れ回った。苻堅の大軍は統制を失い、敗走するにいたった(淝水の戦い)。朱序はこの機に東晋に帰国した。龍驤将軍・琅邪国内史に任じられ、揚州豫州五郡軍事・豫州刺史に転じ、洛陽に駐屯した。 386年(太元11年)、丁零の翟遼が譙に進攻してくると、朱序は将軍の秦膺や童斌を派遣し、淮泗諸郡とともに翟遼を討たせた。387年(太元12年)、監青兗二州諸軍事・青兗二州刺史に転じ、彭城に駐屯した。淮陰への移鎮を求め、孝武帝の許しを得た。翟遼が子の翟釗に陳・潁に進攻させると、朱序は秦膺を派遣して翟釗を討たせ、撃退した。朱序は征虜将軍の号を受け、都督司雍梁秦四州軍事を加えられた。孝武帝は河南郡太守の楊佺期や南陽郡太守の趙睦にそれぞれ兵1000人を与えて朱序に配属させた。また朱序が元荊州刺史の桓石生の府田100頃と穀物8万斛を要求すると、孝武帝はこれを供与した。388年(太元13年)、持節・都督雍梁沔中九郡諸軍事・雍州刺史に転じた。 390年(太元15年)、西燕の慕容永が軍を率いて洛陽に向かってくると、朱序は河陰から北に黄河を渡り、西燕の将軍の王次らと遭遇して、沁水で会戦した。王次を撃退し、その部将の勿支を斬首した。また参軍の趙睦と江夏国相の桓不才が慕容永を追い、太行でこれを撃破した。このため慕容永は上党に撤退した。ときに楊楷が数千人を集めて、湖陝にいたが、慕容永の敗北を聞くと、その子を人質に派遣して朱序に降伏を申し出た。朱序は慕容永を追って上党の白水にいたり、慕容永と20日ほど対峙した。翟遼が金墉に向かっているとの報を聞いて、朱序はやむなく引き返した。朱序が翟釗を石門に攻撃し、参軍の趙蕃を派遣して翟遼を懐県に攻めさせると、翟遼は夜間に逃走した。朱序は洛陽に撤退し、鷹揚将軍の朱党を石門の守備にとどめた。朱序は子の朱略を洛陽城の督護とし、趙蕃をその補佐として残し、自身は襄陽に帰還した。 後秦の降将で東羌校尉の竇衝が離反して漢川に入ろうとすると、皇甫釗や周勲らが竇衝を受け入れた。梁州刺史の周瓊は巴西三郡を失陥し、兵力も少なかったため、朱序に救援を求めた。朱序は将軍の皇甫貞を派遣して救援させた。竇衝は長安の東に拠り、皇甫釗と周勲は逃亡した。 朱序は老病を理由にたびたび解職を願い出たが、許可を得られなかった。そこで許しを得ないまま、離任した。数十日後、廷尉に罪を問われたが、孝武帝が不問に付した。393年(太元18年)、死去した。左将軍・散騎常侍の位を追贈された。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「朱序」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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