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朱 慶瀾(しゅ けいらん)は、清末民初の軍人・政治家。清末の新軍軍人で、民国が成立した後は、黒竜江将軍、広東省長などを歴任した。奉天派にも属したが、政治的立場としては孫文(孫中山)にも同情的であった。字は子橋。祖籍は浙江省紹興府紹興県。 == 事跡 == === 清末の活動 === 父は府の役所で幕僚をつとめていた。しかし朱慶瀾の幼年時代に家庭が没落し、一家で奉天省錦州に移住している。朱慶瀾は、当初は学問を志していた。しかし1893年(光緒19年)に錦州の巡防営に入隊し、軍功をあげて次第に昇進して5つの営の統領となった。 1904年(光緒30年)に、趙爾巽が盛京将軍に就任すると、朱慶瀾はその配下として活躍する。営務処督弁に任命されて奉天省の軍事改革に尽力した。1906年(光緒32年)には、趙の直属部隊の統領として瀋陽に駐留している。 1909年(宣統元年)6月、趙爾巽が四川総督に転任する。朱慶瀾もこれに随従して四川省入りし、陸軍第33混成協協統に任命された。1911年(宣統3年)2月、同協は第17鎮に昇格し、朱がその統制(指揮官)となった。朱は、程潜、方声濤などの日本留学経験の軍人たちを招聘し、軍の強化に努めた。 同年、新たに四川総督に就任した趙爾豊が四川鉄道保護運動(保路運動)を武力鎮圧しようとしたため、省内は騒乱状態となる。まもなく、武昌蜂起に呼応する形で、革命派の大漢四川軍政府が成都に成立し、四川省咨議局議長蒲殿俊が都督に、朱が副都督に推戴された。朱が副都督として推薦を受けることができたのは、四川保路運動の武力鎮圧に消極的だったことも理由である。しかし、給料遅配に不満を抱いた四川軍兵士たちの暴動が就任後すぐに発生し、鎮圧できなかった蒲と朱は下野に追い込まれた〔丘琴・姜克夫「朱慶瀾」は、この事件は尹昌衡(この後、四川都督となる)の秘密裏の煽動により発生したものとしている。〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「朱慶瀾」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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