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永楽帝(えいらくてい)は、明の第3代皇帝。姓は朱(しゅ)。諱は棣(てい)。廟号は太宗(たいそう)であったが、嘉靖帝の時に成祖と改称された。諡号は体天弘道高明広運聖武神功純仁至孝文皇帝、嘉靖帝の時に啓天弘道高明肇運聖武神功純仁至孝文皇帝と改称された。一般的に日本ではその在位中の元号から永楽帝と称される。 == 生涯 == === 燕王時代 === 至正20年(1360年)、紅巾の乱で頭角を現した群雄の一人・朱元璋(後の洪武帝)の四男として生まれた。幼い頃は早朝から学者を招き、一度読んだ本の内容は忘れなかったとされる。洪武3年(1370年)、北平に封じられるが、実際に北平に赴いたのは洪武13年(1380年)、21歳の時である。元を北方に駆逐したが、依然北元としてモンゴル高原に割拠していた時代、北方の要衝である燕は極めて重要な防衛拠点であり、ここに配置された朱棣はその戦場での能力と勇敢さを洪武帝に認められていた。 洪武23年(1390年)、25年(1392年)、29年(1396年)と北伐を行い、ことごとく勝利した。太祖・洪武帝は「北顧の憂いなし」と述べたと伝わる。 『明史』によれば洪武25年(1392年)に皇太子であった長男・朱標が死去すると、洪武帝は朱棣に皇位を継がせようとしたが群臣に反対され取り止め、朱棣を皇帝にできないことを嘆き悲しんだと記録にある。これは第2代皇帝建文帝簒奪を隠蔽するための脚色とも考えられ盲信することはできないが、朱棣が有能な人物であったことを示唆する記録である。 洪武31年(1398年)、洪武帝の崩御にともない朱標の子で甥にあたる建文帝が即位。建文帝の側近である斉泰・黄子澄らは皇帝権力を確立するため、各地に封じられた皇族である諸王の取りつぶしを画策した。この時、当時燕王であった朱棣は2月に自ら南京に赴いた。建文帝の戸部侍郎・卓敬はこの機を捉えて燕王を南昌へと配流すべきと上表したが、建文帝は「燕王は血肉を分けた至親である、謀反の心配などはない」と答えたと言う。 しかし3月、北平の官吏の一部が燕王と結託と言う報告が入り、斉泰らは内通者を逮捕。都督の宋忠に燕王の指揮下にある軍隊を率いさせて出動させると言う方法で北平の兵力を削減した。この頃から朱棣は仮病になったり狂人の振りをしていたとする。しかし、この仮病を密告するものがいたため斉泰らは燕王朱棣を逮捕するように指示した。一方朱棣の側もこの指示を知っていたとされる。 これに反発した朱棣は朝廷関係者と内通者を逆に捕縛し殺害。兵を集め、南京の建文帝に対し反乱を起こした。朱棣は自らの軍を靖難軍(君側の奸を討ち、国難を靖んずるの意味)と呼び、ここからこの反乱を靖難の変と称される。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「永楽帝」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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