|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ 朱 : [しゅ, あけ] 【名詞】 1. (1) scarlet 2. red 3. (2) bloody
朱 浮(しゅ ふ、生没年不詳)は、中国の新代から後漢時代初期にかけての政治家または武将。字は叔元。徐州沛郡蕭県の人。父は沛郡の役人朱詡〔董賢に目を掛けられていた朱詡は自らを弾劾し大司馬府を去り、棺衣を買って、塚を発かれ検死の後に裸で獄中に埋められた董賢の屍を収めて葬った。王莽はこれを怒り、別の罪状にて朱詡を撃ち殺した。(『漢書』佞幸伝第六十三「董賢伝」)〕。 == 事跡 == === 彭寵との対立 === 後漢草創期の功臣の1人で、光武帝(劉秀)即位前からその配下にあった人物である。 更始1年(23年)、劉秀の河北征伐に従軍して大司馬主簿に任命され、後に偏将軍に転任し、王郎討伐に貢献した。その後、呉漢が更始帝配下の幽州牧苗曾を誅殺すると、朱浮はその後任として大将軍兼幽州牧に任命され、薊を守備している。光武帝即位後の建武2年(26年)、朱浮は舞陽侯に封じられ、食邑3県を有した。 朱浮は若くして才能があり、節操を磨いて士人の心を収めようとしていた。幽州牧に就任すると、幽州の名士王岑などを招請して官吏として登用し、王莽時代の2千石の官吏を幕府に迎え入れ、また、幽州各郡の穀倉によりこれらの人士の家族も養っている。しかし、その配下となった漁陽太守彭寵は、多くの官位を置いて軍の輜重を消耗することを望まなかったため、朱浮の方針には従わなかった。朱浮は誇り高く事を焦る性格であったため、不満を抱き、厳しい言葉で彭寵を責め立てた。彭寵もまた個性の強い人物であり、王朗討伐の際の功績を自負していたため、両者は次第に嫌悪や憎悪を逞しくしていく。 彭寵を憎悪した朱浮は、彭寵が小役人を派遣してその妻を迎えながら母を迎えず、賄賂を受け取り、友人を殺害し、糧食を収拾し、その心は図りかねると上奏した〔なお、これらの彭寵の行状が事実かどうかは、不詳である。〕。また彭寵は、その優れた理財能力を生かして荒廃した北方の復興に貢献しており、これに対しても朱浮が何らかの反感や嫉妬心の類を抱いたとも考えられる。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「朱浮」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|