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朱 紹良(しゅ しょうりょう)は中華民国(台湾)の軍人。中国同盟会以来の革命派で、国民革命軍軍人としては蒋介石を一貫して支持した。1930年代半ばから40年代半ばにかけて、中国西北地域における軍事・政治の要職を務めている。旧名は宝瑛だったが、前漢の張良を敬慕して紹良に改名した。字は一民、逸民。 == 事跡 == === 中国同盟会、黔軍加入 === 最初は旧学を学んでいたが、17歳の時に福建陸軍小学に入学し、2年後に南京陸軍第4中学へ進学した。まもなく日本へ留学することになり、東京振武学校にまず入学する。1910年(宣統2年)、東京で中国同盟会に加入した。 翌年9月、朱紹良は父の喪に服すために帰国したが、ちょうど武昌起義(辛亥革命)が勃発し、漢口へ赴いて革命派に加わった。1912年(民国元年)初めに、上海の滬軍都督府で参謀に任ぜられている。同年冬に福建省に戻り、福建陸軍小学で教官となった。翌年、第二革命(二次革命)が勃発すると、朱も反袁世凱のため革命派に加わったが、敗北して日本に亡命した。再来日後は、まず宇都宮砲兵第14連隊で実習を積み、翌年、陸軍士官学校第11期砲兵科で学んだ。このときの同学には、何応欽・谷正倫・賀耀組がいる。 1916年(民国5年)に卒業した朱紹良は、何応欽に随従して貴州省入りし、黔軍(貴州軍)に加入した。以後、黔軍総司令王文華から目をかけられ、王が率いる第1師で参謀長に任ぜられる。朱は軍人教育に成果をあげ、王の四川出征でも帷幕で作戦を立案し、1917年(民国6年)12月、重慶衛戌司令を兼任した。このときの働きぶりにより、朱は「黔軍の小諸葛」と称されたという。 1920年(民国9年)、王文華は四川を追われ、部下の谷正倫らに命じて貴州省の武力制圧を行わせた(民九事変)。このときの貴州督軍は王の伯父である劉顕世であったため、批判を恐れた王は上海に退避し、朱紹良もこれに随従した。しかし翌年3月、北京政府と結んだ王配下の袁祖銘が放った刺客により王は暗殺されてしまう。失意の朱は、これ以後、黔軍を離れることになった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「朱紹良」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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