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朱 経農(しゅ けいのう)は中華民国の教育者・政治家。名は経だが、字の経農で知られる。中国国民党の政治家で主に教育部門で活動し、商務印書館などで教育関連書籍の刊行等に携わった。祖籍は江蘇省太倉州宝山県。 == 事跡 == === 革命派としての活動 === 1896年(光緒22年)に、叔父が湖南省で官職に就いたため、朱経農の一家も湖南に移った。1898年(光緒24年)、戊戌の政変で変法派が壊滅し、湖南時務学堂総理だった熊希齢が失意のため隠居してしまう。このとき、朱は熊の下に通い、旧学を学ぶ。1903年(光緒29年)、常徳府中学堂に進学し、この頃から革命派の思想に触れ始めた。 翌1904年(光緒30年)、朱経農は日本に留学し、弘文学院と成城学校で学ぶ。1905年(光緒31年)、中国同盟会に加入した。同年冬、「清国留日学生取締規則」に反発して帰国し、翌年、留学生仲間と上海で中国公学を創設した。1910年(宣統2年)、湖南に戻り、公立高等実業学堂英語教員や公立農業学堂翻訳を務めている。翌年、辛亥革命が勃発すると、湖南省の革命派に加わって戦った。しかし、湖南革命派の指導者である焦作峰・陳作新が立憲派に殺害されると、朱は失望して上海に逃れている。 1912年(民国元年)、宋教仁の招聘を受けて朱経農は北京に移り、『民主報』編輯と『亜東新聞』総編輯に任ぜられ、革命派の思想宣伝に努めた。翌年、第二革命(二次革命)勃発のため、両紙は廃刊の憂き目に遭い、朱は天津に逃れた。その後、熊希齢内閣の成立と共に、かつての師に招聘される形で、北京政府農商部で職を得ている。しかし袁世凱が皇帝即位を目論むようになると、これに不満を抱いた朱は職を辞し、アメリカへ留学した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「朱経農」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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