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朱 舜水(しゅ しゅんすい、万暦28年10月12日(1600年11月17日) - 天和2年4月17日(1682年5月24日))は、明の儒学者である。江戸時代初期に来日。舜水は号。諱は之瑜、字は楚嶼・魯璵。 == 略歴 == 浙江省餘姚に生まれる。中国では李自成の乱により崇禎17年(1644年)に明朝が滅亡し、李自成は満州民族に駆逐され新王朝である清朝が成立する。舜水は仕官はしていなかったものの鄭親子など明朝遺臣が華南を中心に明朝再興のため活動を開始すると運動に参加し、軍資金を得るため日本やヴェトナムへも渡り貿易などを行い、南明政権の魯王や、台湾に拠った鄭成功を支援し、永暦13年(1659年)7月の南京攻略戦にも参加している。 舜水は鄭成功が鎖国政策下の日本へ救援を求める日本請援使として派遣されていたが、南京攻略戦の敗退後、万治2年(1659年)冬に復明運動を諦めて日本の長崎へ亡命する。万治3年(1660年)には筑後柳河藩の儒者・安東省菴に援助され、流寓生活を送る。明末清初の時期には中国から日本へ多くの文人が渡来し、大名家では彼らを招聘することが行われていたが、寛文5年(1665年)6月には常陸水戸藩主の徳川光圀が彰考館員の小宅処斎を派遣して舜水を招聘し、同年7月には江戸に移住する。 光圀は舜水を敬愛し、水戸学へ思想的影響を与えたほか、光圀の就藩に際しては水戸へも赴いており、光圀の修史事業(後に『大日本史』と命名)の編纂に参加した安積澹泊や、木下道順、山鹿素行らの学者とも交友し、漢籍文化を伝える。83歳で死去。 死後には光圀により遺稿の編纂が行われ、正徳5年(1715年)には『舜水先生文集』全28巻としてまとめられる。東京大学農学部内には“朱舜水先生終焉之地”と記された碑がある。 墓所は水戸藩主累代の墓地である瑞龍山(茨城県常陸太田市)で、明朝様式の墓が建てられた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「朱舜水」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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