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朴 一禹(パク・イルウ、1904年 - 没年不明〔「朴一禹」(『岩波小辞典 現代韓国・朝鮮』)は「1904(1912?)-?」と生没年を表示。〕)は、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の政治家、軍人。第二次世界大戦以前は中国共産党員として中国で活動を行っていた人物であり、戦後の北朝鮮における延安派の中心人物のひとりであった。 == 経歴 == 朝鮮平安道の人とされるが、1904年(1912年説もある)〔、間島(延辺)の延吉県開山の生まれ〔「朴一禹」(『岩波小辞典 現代韓国・朝鮮』)は「延吉県開山生まれ」とする。〕。1928年、中国共産党に入党〔「朴一禹」(『岩波小辞典 現代韓国・朝鮮』)は1928年入党とする。〕。満洲で活動をしていたが、1931年の満州事変後に中国本土へ移動。延安の中国共産党中央党校やに学んだのち、1938年より八路軍に入り、解放区の県長などを務めた。 1942年7月にの結成に参加して中央委員に就任、朝鮮義勇軍の副司令となった。1945年2月には朝鮮革命軍政学校の副校長を兼ねた。また、陝甘寧辺区政府の参議員も務めており、(1945年4-6月)に代表として出席している。 1945年8月、ソ連の参戦と日本の敗戦により、朝鮮は「解放」され、中国も新たな局面を迎える。1945年8月13日、朱徳は太行山の朝鮮義勇軍に東満(延辺)進出を命じる。朴一禹は朝鮮義勇軍第5支隊政治委員を兼任し、第5支隊とともに延辺に入り、人心の掌握と根拠地の建設にあたった。1946年3月、朝鮮義勇軍の兵士を率い、ソ連軍政下の北部朝鮮に帰国した。 1946年8月、北朝鮮労働党(のちの朝鮮労働党)第1回大会において党中央委員会常務委員会委員に選出される〔和田(1992年)、363-364ページ〕〔鐸木(1990年)、69ページ〕。1947年2月に北朝鮮人民委員会内務局長に就任。1948年3月の第2回党大会において党常務委員会委員に再選〔和田(1992年)、364-365ページ〕。8月に最高人民会議代議員となり、1948年9月9日に朝鮮民主主義人民共和国が建国されると内務相となった。1949年6月、南北労働党が合同して朝鮮労働党が結成されるとその中央委員となり、祖国統一民主主義戦線中央委員にも就任した。 1950年6月25日に朝鮮戦争が勃発すると軍事委員会委員に就任。同年10月にダグラス・マッカーサー元帥の指揮下で朝鮮半島を北上する国連軍に対抗して中国人民志願軍(抗美援朝義勇軍)が朝鮮入りすると、中国側の要請を受けて同軍に参加。10月25日、毛沢東の命令により中国人民志願軍副司令員兼副政治委員に任命された〔鈴木(2002年)〕〔和田(2002年)、247ページ〕。12月には中朝軍の指揮一元化のため中朝連合司令部が組織されると、朴は連合司令部副政治委員に任命された〔和田(2002年)、251-253ページ〕。この人事には金日成よりも、延安派の朴一禹の方が中朝連合軍の副司令官に相応しいとする彭徳懐司令官の意向があった〔田中恒夫「彭徳懐と金日成」『図説 朝鮮戦争』河出書房新社〈ふくろうの本〉、東京、2011年4月30日、初版発行、83頁。〕。1950年11月から1952年2月まで朝鮮人民軍の前線副司令官となる。この間、1950年に朝鮮人民軍大将、1953年に次帥となる。 1953年2月5日、金日成により召還され、副司令職は崔庸健に代えられた〔和田(2002年)、410-411ページ〕。3月には通信相に就任(~1955年4月)。1953年8月に党中央委員の任を解かれる。1955年4月、分派として党内外の一切の役職を停止され、粛清される〔「朴一禹」(『岩波小辞典 現代韓国・朝鮮』)は「55年4月粛清」とする。〕。 1953年7月27日の朝鮮戦争休戦協定後も、抗美援朝義勇軍の彭徳懐司令官は金日成よりも朴一禹副司令官を重視し、朴一禹を朝鮮労働党総書記に据えようと考えており、金日成首相による延安派粛清以後の中朝関係は悪化していたが、1959年に彭徳懐が毛沢東主席の大躍進政策を批判したことによって失脚した後、同年中に毛沢東主席から金日成首相に中朝指導者間の関係改善の契機が伝えられた〔下斗米伸夫『アジア冷戦史』中央公論新社〈中公新書1763〉、東京、2004年9月25日、初版発行、118-120頁。〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「朴一禹」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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