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朴武煕 ( リダイレクト:朴正煕 ) : ウィキペディア日本語版
朴正煕[ぱく ちょんひ]

朴 正煕(パク・チョンヒ、、、1917年11月14日時憲暦9月30日〔出生日を1917年9月30日とする文献等があるが、これは時憲暦での表記でありグレゴリオ暦に直すと11月14日となる。〕) - 1979年10月26日)は、大韓民国軍人政治家国家再建最高会議議長。第5代から第9代までの大韓民国大統領本貫高霊朴氏は「中樹(チュンス、)」。創氏改名による日本名高木正雄(たかぎ まさお)。
1番目の妻に金好南。2番目の妻に文世光事件で暗殺の犠牲となった陸英修。金好南との間に長女の朴在玉。陸英修との間に、次女で第18代大韓民国大統領に就任した朴槿恵と、長男でEGテック現会長の朴志晩
== 概要 ==
日韓併合後の朝鮮半島朴成彬白南義の末っ子として生まれる。朝鮮名では朴正煕、日本名では高木正雄と名乗った〔。大邱師範学校経て学校教師を務めていたが、やがて軍人を志して同じく日本の影響下にあった満州帝国の軍官学校(士官学校)に志願入隊する。卒業後は成績優秀者が選抜される日本の帝国陸軍士官学校への留学生となり、第57期生として日本式の士官教育を受ける。帰国後は満州軍第8師団参謀として対日参戦したソ連軍との戦闘に加わり、内モンゴル自治区で終戦を迎えた。
第二次世界大戦後、中国の北京に設置されていた大韓民国臨時政府(朝鮮系住民による独立組織)に加わり、朝鮮半島の南北分離時は南部の大韓民国を支持して国防警備隊の大尉となった。国防警備隊が韓国国軍に再編された後も従軍を続け、朝鮮戦争終結時には陸軍大佐にまで昇進、1959年には陸軍少将・第2軍副司令官の重職に就いた。一方、内戦を終えた韓国内では議会の混乱によって一向に復興や工業化などが進まず、また軍内の腐敗も深刻化していた。これらの状態に対して軍の将官・将校・士官らの改革派を率いてクーデターを決行し軍事政権(国家再建最高会議)を成立させた(5・16軍事クーデター)。形式的な民政移行が行われた後も実権を握り続け、自身の政党である民主共和党による事実上の独裁体制を形成し、第5代から第9代大韓民国大統領(在任:1963年 - 1979年)と大統領任期を5期に亘って務め、権威主義体制による開発独裁を推し進めた。〔朝鮮人物事典262頁〕
独裁政権下では日本国佐藤栄作内閣総理大臣日韓基本条約を批准して日韓両国の国交を正常化し、更にアメリカ合衆国リンドン・ジョンソン大統領の要請を受けて1964年ベトナム戦争に大韓民国国軍を出兵、日米両国の経済支援を得て「漢江の奇跡」と呼ばれる高度経済成長を達成した。大韓民国は1960年代から1970年代にかけての朴正煕執政下の高度経済成長により、1970年頃まで経済的に劣位であった同じ朝鮮民族分断国家朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)を経済的に追い越し、最貧国グループから脱した。
一方で統制的な軍事政権下では民主化などの運動は徹底して弾圧され、人権上問題のある拷問や政治犯の投獄なども行われた。また対外政策においてもアメリカとの強固な同盟関係を作り出したベトナム戦争において、米軍同様に虐殺や戦争犯罪に関与させる結果となり、ベトナムとの外交関係は悪化した。また日本との友好姿勢も国内の民族主義左派ナショナリズム)から敵視される背景となった。政権後半には単独での核武装などの自主国防路線や、日本に滞在していた民主化活動家の金大中を諜報機関(KCIA)により拉致し国家主権を侵害する(金大中拉致事件)など強硬な政策を進めた。
1979年10月26日、大規模な民主化デモの鎮圧を命じた直後、側近である金載圭情報長官により暗殺された。享年61。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Park Chung-hee 」があります。




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