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杉内雅男 : ミニ英和和英辞書
杉内雅男[すぎうち まさお]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [すぎ]
 【名詞】 1. Japanese cedar 2. cryptomeria japonica 
: [うち]
 【名詞】 1. inside 
: [おとこ]
 【名詞】 1. man 

杉内雅男 : ウィキペディア日本語版
杉内雅男[すぎうち まさお]

杉内 雅男(すぎうち まさお、大正9年(1920年10月20日 - )は、囲碁棋士宮崎県出身、日本棋院所属、井上一郎五段門下。囲碁選手権戦優勝、本因坊戦挑戦者2回など。厳しい狙いを持つ力戦派で、囲碁に対する真摯な姿勢から「囲碁の神様」の異名をとる。夫人は杉内寿子八段。
2009年から2015年現在に至るまで日本棋院の最年長棋士であり、プロ生活は70年を超える。しかし米寿を迎えても打ち分けの年間成績を残すなど、いまだその実力は健在である。
==経歴==
宮崎県都城市に6人兄弟の次男として生まれる。小学4、5年頃に父や叔父の見よう見まねで囲碁を覚え、地元の囲碁大会で準優勝して神童と言われる。1933年の小学校卒業後、瀬越憲作に入門を依頼し、門下の井上一郎四段(当時)に内弟子として入門、日本棋院院生となる。1937年に入段。この頃、研究機関「青年研究会」に参加。1941年に教育召集で秋期大手合を休場。
1944年1月に徴兵により北支に出征し、1946年12月に復員。青年棋士の研究機関「敲玉会」「黎明会」に参加。1947年、「囲碁研究」誌の若手トーナメントに優勝。1949年に呉清源・新鋭挑戦碁の三番碁に出場し、先二先の手合ながら黒番4目勝ちを収める。1950年の日本棋院と関西棋院による東西対抗戦では、鯛中新六段に敗れる。この頃の囲碁一筋の生活から「囲碁の神様」の渾名がついた。
1953年から院生師範を務める。遅刻・対局態度などに厳格な姿勢で臨み若手に恐れられたが〔囲碁史探偵が行く ―昔と今 碁打ちの物語 福井正昭著 日本棋院〕、多くの優れた棋士を送り出した。1954年に、敲玉会のメンバーだった女流棋士の本田寿子五段(当時)と結婚、戦後初の棋士同士の夫婦となり、夫婦合わせて十二段とも言われた。同年七段時に本因坊戦リーグで優勝して高川秀格本因坊への挑戦者となり、下馬評では前田陳爾による「いわゆる力というものは杉内さんの方が強い」など五分五分と言われたが2勝4敗で敗れる。高川は後に、この時が本因坊9連覇中の最大の危機と述べた〔秀格烏鷺うろばなし 高川秀格著 日本棋院〕。
1955年、呉清源との呉対新鋭八段戦の三番勝負を打ち、1勝2敗となった。同年、第1期最高位戦リーグで、6勝2敗で坂田栄男と同率となるが、前年度順位により坂田が最高位となる。1959年の最高位戦リーグで九段に昇段。
1958年の本因坊戦リーグでは、木谷実、坂田栄男、杉内の3人が5勝2敗となり、同率決戦のトーナメントのくじ引きで不戦勝を引き当て、木谷に勝った坂田を破って挑戦者となった。高川秀格との挑戦手合も予想は五分五分と言われたが、再度2勝4敗で敗れる。1959年の早碁名人戦で宮下秀洋九段に挑戦して2勝1敗で勝ち、初タイトル。関西棋院早碁名人戦優勝者の鯛中新九段との電報碁にも勝つ。翌年は藤沢朋斎九段に1勝2敗で敗れる。
1963年に囲碁選手権戦の決勝三番勝負で、院生師範時代の教え子である当時20歳の林海峰七段を2勝1敗で破って優勝。
1985年、65歳で第40期本因坊リーグ入り。
2004年、公式戦通算800勝を史上最年長(84歳)で達成。2006年4月までの通算成績は、810勝573敗12ジゴ1無勝負で、勝率5割9分3厘。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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