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杉原 輝雄(すぎはら てるお、1937年6月14日 - 2011年12月28日)は、大阪府茨木市出身のプロゴルファーである。約50年に渡って現役を続行してきた存在感の大きさから、日本プロゴルフ界のドンと呼ばれた。永久シード権獲得者である。 優勝回数は国内男子プロとしては尾崎将司、青木功に次ぐ歴代3位だが、ツアー施行後はいわゆる「AON時代」(青木、尾崎、中嶋常幸の3人の頭文字を取った呼称)に突入していたため、レギュラーツアーにおいて賞金王(賞金ランキング1位)を獲得したことがない。 == 来歴 == 1957年のプロ入り後、1962年の日本オープン選手権を皮切りに、2008年までに通算63勝(うち海外1勝、シニアツアー8勝)をあげる。なお、ツアー通算54勝と言う表記をよく見かけるが、そのうち26勝は1973年に日本ゴルフツアー制度が施行される前の、日本国内での優勝である。ツアー機構発足後のレギュラーツアーでは、通算28勝(ただし永久シード対象は27勝)が正しい。 1989年にツアー施行後に25勝したことで永久シード権を獲得。2001年の静岡オープン以来レギュラーツアーの予選通過はなかったが、2006年のつるやオープンゴルフトーナメントにて58試合ぶりに予選を通過した。68歳10ヶ月での予選通過は日本ツアー最年長記録であると同時に、アメリカツアーのサム・スニードが達成した67歳2ヶ月をも上回る大記録である。 生涯現役を標榜して、シニアツアーと並行してレギュラーツアーにも出場を続け、同じ関西出身の金井清一とともに両ツアーを盛り上げた。2007年9月13日に行われた日本プロゴルフゴールドシニア選手権(出場資格68歳以上)最終日でエージシュートを達成しトータル3アンダー141で優勝。なお同日に行なわれたチャレンジトーナメント・「SRIXONチャレンジ」では長男の杉原敏一が優勝し、親子同日優勝を達成した。2008年6月14日、71歳の誕生日を迎えた日に開催された「杉原輝雄メモリアル第4回旭川オープンゴルフ選手権大会〔杉原の名前を付けたいとの主催者の申し出を受けたことによる。〕」において予選70ストロークで決勝へ進出し、決勝でも71ストロークと2日間続けてのエイジシュートを達成した。同大会には川岸良兼、鈴木亨、宮里聖志、小山内護、宮本勝昌、加瀬秀樹、尾崎直道、飯合肇、丸山大輔、すし石垣、上田論尉等のレギュラー・シニアツアーのトッププロが出場していた〔エイジシュート四方山話 日経ゴルフガイド 2008年7月15日〕。7月9、10日に行われた関西プロゴールドシニア(新宝塚カントリークラブ(兵庫))のゴールドの部(68歳以上)では、70,65の2日続けてのエージシュートを達成し135の通算9アンダーで優勝した〔PGA REPORT97 PGAリポート 2008年10月〕。2010年4月29日、中日クラウンズに出場し、同一大会連続出場の世界新記録を樹立した〔【GDO EYE】杉原輝雄、同一大会連続出場の世界新記録を樹立! Golf Digest Online 2010年4月29日〕が、翌2011年の同大会へは体調不良の為参加を見送ると発表、記録も途切れることとなった〔73歳杉原、連続出場止まる 中日クラウンズ欠場 47NEWS 2011年4月19日〕。 2011年12月20日、スポーツ功労者文部科学大臣顕彰を受ける。 2011年12月28日、前立腺癌のため死去。。法名は「釋修輝(しゃくしゅうき)」。 2011年12月30日(金) 永久契約を結んでいたデサントの担当者が前日東京から足を運び来季契約書を遺族に手渡し翌日の葬儀の際は棺に入れられた。粋な計らいでファンを感動させた。 2014年12月16日、第3回日本プロゴルフ殿堂入り顕彰者に選出された。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「杉原輝雄」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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