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杉山賢人 : ミニ英和和英辞書
杉山賢人[すぎやま けんと]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [すぎ]
 【名詞】 1. Japanese cedar 2. cryptomeria japonica 
: [やま]
 【名詞】 1. (1) mountain 2. (2) pile 3. heap 4. (3) climax 5. critical point 
賢人 : [けんじん]
 【名詞】 1. wise man 
: [ひと]
 【名詞】 1. man 2. person 3. human being 4. mankind 5. people 6. character 7. personality 8. true man 9. man of talent 10. adult 1 1. other people 12. messenger 13. visitor 1

杉山賢人 : ウィキペディア日本語版
杉山賢人[すぎやま けんと]

杉山 賢人(すぎやま けんと、1968年12月12日 - )は、静岡県沼津市出身の元プロ野球選手投手)、野球指導者、野球解説者、日本女子プロ野球機構ノース・レイア元監督。
== 来歴 ==

=== アマチュア時代 ===
静岡県沼津市で化学工場の社長の息子として生まれる〔「投球美学にこだわる男の負けず嫌いな性格は」『週刊ベースボール』、1994年2月21日号、P.29〕。賢い人間になってほしいとの願いから「賢人」と命名され、スーパーマンクラーク・ケントからもヒントを得たという〔。摘んできた花を飾るような繊細な子どもだったが、小学校3年生の時にバッティングセンターで大人向けの速球を打ち返し、親の勧めで翌年から野球を始めた〔。小柄ながら優れた打撃を見せ、少年野球の県大会では特別敢闘賞を受賞している〔。
金岡中学では2年生の夏にエースが負傷したのをきっかけに投手に転向した〔。沼津学園に進学すると再び野手になり、入学時は身長およそ160cmで打撃が課題だったが練習を重ねて克服〔「セイブの味方・アンパンマン 杉山賢人が強くなるまで」『週刊ベースボール』、1993年7月12日号、P.110〕。2年の夏の県大会から1番・中堅手のレギュラーとなった〔。3年になると3番を任され、2番手投手も兼任していた〔「『まず1勝!そうすれば1年間やれそうです』」『週刊ベースボール』、1993年3月22日号、P.112〕。同年夏の県大会では準々決勝でエースの負傷を受けて登板したが、サヨナラ負けを喫している〔。
専修大学に進むと同期に岡林洋一武藤潤一郎がいたが、同じ静岡県出身の監督の望月教治が高校時代の杉山のプレーを見ており、投手に専念するよう指示された〔。1年春の東都リーグからベンチ入りして2勝を挙げ、岡林が故障していた2年春のリーグ戦では先発を数回務めている〔。3年まで頻繁に外野手転向を訴えたが却下され、最後の1年間は必ずしも熱心に練習していなかったという〔『週刊ベースボール』、1994年2月21日号、P.30〕。大学では3番手投手として主にリリーフを任され、通算で4勝8敗の成績を残した。
大学卒業後は社会人野球東芝に入り、監督の大田垣耕造やコーチの黒紙義弘の指導を受けて野球について深く考えるようになったという〔。良い球を強気に使う高見泰範のリードなどもあって頭角を現し、勝利を挙げて自信を深めていく好循環が生まれた〔。1年目のの都市対抗では1回戦から先発して勝利投手となり、小池秀郎との先発対決となった準々決勝の対松下電器戦でも6回を無失点に抑えて勝利〔読売新聞、1991年7月31日付朝刊、P.19〕。しかし準決勝の対住友金属戦では6失点し、4回途中で降板した〔。なお、この試合で対戦した松本尚樹が社会人時代で最も印象に残っているという〔毎日新聞、1994年6月17日付朝刊、P.15〕。決勝の対三菱重工長崎戦も先発して6回を自責点0の投球で勝利投手になり〔読売新聞、1991年8月2日付朝刊、P.17〕、チームの優勝に貢献して若獅子賞を受賞している。また、同年は社会人ベストナインにも選ばれた。
にはバルセロナ五輪代表の最終選考で同じ左投手の渡辺正和とともに候補となり、渡辺がヒジの検査を受けていた事もありメンバーに選ばれた〔『週刊ベースボール』、1993年3月22日号、P.113〕。本大会では予選の対ドミニカ共和国戦で先発し、被安打3、8奪三振で5回を無失点に抑えて勝利投手になっている〔『別冊宝島』1545号、P.79、2008年〕。3位決定戦ではアメリカを相手に2番手として1回1/3を投げ、被安打2、自責点1で3奪三振を挙げて〔『別冊宝島』1545号、P.80、2008年〕チームは勝利し、銅メダルを獲得した。同年の日本選手権では2勝を挙げてチームの優勝に貢献し、優秀選手に選ばれている。社会人の左投手ではNo.1と言われて〔毎日新聞、1992年11月18日付朝刊、P.21〕迎えた同年のドラフト会議ではマウンドでの度胸などを買われ、左投手が不足していた西武ライオンズから1位指名を受け入団した〔。球団史上最高額となる契約金1億円と、年俸1,000万円で入団契約を結んでいる〔毎日新聞、1992年12月17日付朝刊、P.21〕。なお、契約金で実家を新築したという〔。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「杉山賢人」の詳細全文を読む




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