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杉本 五郎(すぎもと ごろう、明治33年(1900年)5月25日 - 昭和12年(1937年)9月14日)は、日本の陸軍軍人。「天皇信仰の極北」とされる遺言本『大義』で知られる。 == 生涯 == 広島県安佐郡三篠町(現在の広島市西区打越町)生まれ。少年期から将校に憧れ、大正2年(1913年)、質実剛健を伝統とする浅野藩の元藩校・広島修道中学校入学。大正7年(1918年)陸軍士官候補生として広島の歩兵第11連隊に入隊。しかし同年起こった米騒動は、日本帝国の内部的危機の開始を告げる大事件となり、国体安泰の安易な夢が一瞬に打ち破られ、杉本の深刻な思索と悲壮な人生が始まった。小作争議が激化し日本資本主義の屋台骨は揺らぎ始め、ロシア革命の影響で社会主義が台頭、また軍事的封建的支配の圧迫が加わり、社会に暗い圧迫感と絶望感が充満した。兵営の中から混乱した世の中を眺めた杉本は、危機を直感し自ら救世の先達になる決意を固めたのでは、と言われている。しかし軍隊に入った杉本には窓は一方にしか開かれておらず、皇国の精神を発揚し実践するための勉学と修養とに全精神を傾倒し、国粋主義者として前進していく。 大正8年(1919年)陸軍士官学校(33期)本科入校。大正10年(1921年)同校卒業。歩兵少尉に任官、再び歩兵第11連隊附となり、陸軍戸山学校、陸軍科学研究所で短期間の教育を受ける。また軍務の傍ら広島から毎週1回は必ず三原市にある臨済宗大本山・仏通寺に修養に通い出征までの9年間これを続けた。本来個人の精神的な修養原理である禅を国家論や道法論、人生論に持ち込んだ。しかしこうした矛盾に微塵の疑いもさしはさむ事なく独自の思想を形成していく。 昭和6年(1931年)、満州事変では第5師団臨時派遣隊第2大隊第8中隊長として出征、中国天津方面で軍事行動ののち帰還。この後、出世コースである陸軍大学校受験をしきりに薦められたが、「中隊長という地位が私の気持に一番よく叶っている。これ以上の地位につきたくない」と拒否、「兵とともに在り、兵と生死をともにしたい」と願った。実際は、上官の受験への強い勧めに抗しきれず、一度だけ陸軍大学を受験している。結果は不合格であった。息子同然である兵の身上をよく調べ、貧しい兵の家庭へは、限られた給料の中から送金を欠かさなかった。昭和11年(1936年)勃発した二・二六事件に対しては「皇軍の恥」として、共産主義に対すると同様に不忠の汚名をかぶせ非難した。翌昭和12年(1937年)支那事変(日中戦争)が勃発。同年8月少佐に昇進、第2中隊長のまま、長野部隊に属し中国激戦地に従軍。同年9月、山西省広霊県東西加斗閣山の戦闘に於て戦死。岩壁を登って敵兵約600の陣地へ、号令をかけながら突撃。手榴弾を浴び倒れたが、軍刀を杖としてまた立ち上がると再び号令をかけ、倒れる事なく遥か東方、皇居の方角に正対、挙手敬礼をして立ったまま絶命した。38歳の生涯であった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「杉本五郎」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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