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杉浦 明平(すぎうら みんぺい、1913年6月9日 - 2001年3月14日)は、日本の小説家、評論家。 ==来歴・人物== 愛知県渥美郡福江村(現在の田原市折立町)で、小地主兼雑貨商の長男として生まれる。 愛知県豊橋中学校(現在の愛知県立時習館高等学校)を四修で旧制一高へ進学、東京帝国大学文学部国文学科卒業。一年下の後輩、立原道造と一高の短歌会で知り合い、共に同人誌「未成年」を発行、同人に寺田透、猪野謙二がいる。立原道造は、杉浦の郷里渥美の伊良湖を訪れた時のことを随筆「夏秋表」に書き残している。立原は、1939年に24歳の若さで世を去ったため、彼の残された詩を編纂して、『立原道造詩集』(岩波文庫)として世に出したのは杉浦で、『立原道造全集』(全3巻山本書店刊、1940年)の編集を堀辰雄、生田勉などと行ない立原所有の古本の整理をやっている。 大学卒業後、出版社などに勤めながら、イタリア・ルネサンスの研究を続け、その成果は『ルネッサンス文学の研究』(未來社)の著書、『レオナルド・ダ・ヴィンチの手記』上下、『ルネサンス巷談集』、『ミケランジェロの手紙』(いずれも岩波文庫所収)や『ピノッキオの冒険』、『チポリーノの冒険』(岩波書店)『クオレ』(河出書房新社)の翻訳などとなって現れた。 1944年には帝国大学新聞編集員時代の友人田宮虎彦の妻子が杉浦の海岸の別宅に疎開に来る。 第二次世界大戦の後、彼は郷里に戻り、以後、2反5畝の農に親しみながら作家生活を送る。1946年には郷里で青年たちと短歌会を作る。これが後の共産党細胞の中核となる。1948年野間宏、丸山眞男、生田勉、寺田透、猪野謙二、瓜生忠夫などと「未来の会」を作り雑誌「未来」発行。1949年野間宏らの推薦により日本共産党に入ったが、1962年に党の規律にそむいて除名された。また、1955年より2期8年間地元渥美町の町議を務めたこともあり、その時期直接間接に見聞きしたことを元に、海苔養殖業者の利権争いと地域ボスの土着の実体をユーモアを交えながら『ノリソダ騒動記』というルポルタージュものにし、新スタイルの記録文学との評判をとった。現代文学の記録文学の実質的創始者ともいえる。この手のものでは『台風十三号始末記』(岩波新書、これは1956年に山本薩夫監督で、「台風騒動記」のタイトルで映画化されている)、『夜逃げ町長』(講談社)というのもあり、1970年代には『杉浦明平記録文学選集』(全4巻)としてまとめられた。 故郷にほど近い田原藩の江戸家老であった渡辺崋山についても書いており、『わたしの崋山』(未來社のちファラオ企画)、『崋山探索』(河出書房新社のち岩波書店)、『小説渡辺崋山』(朝日新聞社上下、のち朝日文庫全8巻(解説:本多秋五)、1971年毎日出版文化賞)、『崋山と長英』(レグルス文庫:第三文明社)がある。 2008年に影書房で『戦後文学エッセイ選6 杉浦明平集』が刊行された。 杉浦明平の文学的活動の幅は広く、その始点は旧制一高時代アララギに入会し土屋文明に師事をする。アララギの歌人としての代表作に野坂参三を歌ったー延安に憧れたりしは四年前か帰り来し人の記事ぞ身にしむーがある。創歌は約5年ほどでやめるが文明に対しては生涯の師と云っている。その後、1950年(昭和25年)に自費出版した「暗い夜の記念に」は戦後初めての日本浪曼派批判の書といえる。後、文学評論、短歌論、作家論、記録文学、歴史小説、ルネッサンス文学の研究、イタリヤ童話の翻訳、何れの分野も文学史に残る作品を残し、同時に、被差別部落問題、狭山事件、ハンセン病など社会の問題にも幅広く行動を起している。彼の文学の全体像をとらえた「杉浦明平論」はまだ出ていない。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「杉浦明平」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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