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杉浦 清(すぎうら きよし、1914年7月20日 - 1987年8月22日)は、愛知県西尾市出身のプロ野球選手・監督、旧制中等学校野球指導者、野球解説者。 == 来歴 == 中京商業学校の第1期黄金時代の遊撃手で、1931年 - 1933年までの全国中等学校優勝野球大会3連覇に貢献した。この時のメンバーには野口明・鬼頭数雄ら後にプロ野球でプレーする選手がいた。明治大学に入学し、本科(当時は予科と本科に分かれていた)に進んでからは母校初の4連覇(1937年春季 - 1938年秋季)に貢献した。リーグ通算で85試合に出場し、打率.236(305打数72安打)・0本塁打・37打点の成績を残した。 また、明大OBで海草中学校(旧制)監督・長谷川信義が応召した後任として、当時の明大野球部監督である谷澤梅雄の推薦により、1938年7月、4年生エース・嶋清一を擁する同校の臨時監督となった〔山本暢俊『嶋清一 戦火に散った伝説の左腕』彩流社、2007年、P44。これは海草中が1937年夏・1938年春と2度続けて甲子園で中京商業に敗退したことで、中京商業の野球を知る指導者を海草中野球部が欲したこともその理由であった。〕。嶋は既に明大投手陣の一角を担った清水秀雄を超える力量を持っていたという。同年の夏の甲子園では、重圧に弱いとされた嶋の投球の乱れのため初戦で敗退した。大会後、在学中であった杉浦は東京に戻る。明大が4連覇を果たした秋季リーグ戦が終了した年末にも1週間海草中学の合宿を指導した〔『嶋清一 戦火に散った伝説の左腕』P125。〕。 翌1939年に大学を卒業後、大学院に進学。この頃、明治大学の先輩である松木謙治郎(大阪タイガース初代主将)が杉浦をプロに誘いに行ったところ、杉浦が高等文官試験受験のために鉢巻きをして勉強しているのを見て、あきらめて退散したという〔当時、「高文パスの帝大卒との間には、待遇に月とスッポンぐらいの差があった」と松木も認めていた。〕。同年6月に海草中学監督に復帰。夏の甲子園では、嶋の全試合完封、準決勝、決勝での連続ノーヒットノーランの偉業や、三塁手・5番で出場した真田重蔵の活躍で、見事優勝を飾った。上記の通り高等文官試験を目指して受験勉強中で、指導教官からは野球のコーチに行くことを止められたが「男には義理があります」と和歌山に赴いた〔『嶋清一 戦火に散った伝説の左腕』P133。のちに明大に進んだ嶋およびチームメイトの古角俊郎は法学部の教授から「おまえらは杉浦の高文受験をやめさせ一生を狂わせてしまったんだぞ」と皮肉を言われたという。〕。杉浦はのちに「私が個人的にコーチしなければならない中等学校は、母校中京商をはじめ他にもたくさんあったのだが、結局また海草中学を引き受けたというのもただこれだけの理由。『嶋は立派な投手である』というのを全国に証明したいからだったのである」と記している〔同上。この内容は杉浦の著書『ユニフォームは知っている』(黎明書房、1955年)の引用と思われる。〕。 杉浦は嶋の剛腕に魅せられたことで、指導者として野球の道を歩むことになった。なお、海草中学への指導はこの夏の大会限りで、その後は軍務から戻った長谷川が監督に復帰している〔『嶋清一 戦火に散った伝説の左腕』P173。〕。大学院在学中の1941年、応召した谷澤の後任として明大野球部の監督となり、嶋と再会している〔『嶋清一 戦火に散った伝説の左腕』P185。〕。しかし、秋のリーグ戦が終わると杉浦自身も応召することとなった〔『嶋清一 戦火に散った伝説の左腕』P188。〕。 ラバウルで終戦を迎えた後、に中部日本に入団したが、既に32歳であった。入団してまもなく正遊撃手となり、7月からは選手兼任監督も引き受けたが、就任時に「本社(=運営母体の中部日本新聞社)からきた監督」と宣言した事から、当時名古屋軍時代からの赤嶺昌志球団代表の影響下にあった選手達の反発を買った。さらに本社が赤嶺を解任して中村三五郎を新代表にした際、赤嶺が主な選手を引き連れて退団(「赤嶺旋風」のきっかけとなる)するなどチームが弱体化し、苦戦を余儀なくされた。 8月17日に横浜公園球場で日本初のナイトゲーム・対巨人戦が行われ、3対2で勝利し、勝利監督となった。しかし日本初のナイトゲームであったため、照明が今より暗く、練習用の球が試合中に転がっていたり、内野手が走者と交錯したり、川上哲治の二塁打が本塁打とジャッジ(もちろん訂正された)されたりと、アクシデントが多発した。また、先発を務めた星田次郎の投じた球が、薄暗さが元で青田昇の顔付近への死球となり青田は退場、これが元で巨人の打者が逃げ腰になり、勝利のきっかけになったとされる。試合後、「昼間のゲームより何倍も疲れた」とコメントした。 に大学の大先輩で当時技術顧問の天知俊一が監督に就任し、選手一本で再出発。天知を手助けし、チームの再建に力を尽くした。に大洋ホエールズ、に国鉄スワローズに移籍しても主軸として活躍し、1952年には25本塁打を放つ。若手の切り替え時期だった(国鉄は球団創設当初は40代のノンプロ選手をレギュラーに据えていたが、この年から若手に切り替えていった)ため、翌限りで現役を引退した。 現役時代、自身の背番号にちなんだ屋号を付けた喫茶店を経営していた。最初は「三十番」であったが、1949年に天地監督と交換し55番に変更したため、5が二つ並んだ事から「ツーファイブ」に変更した。その後、現役・監督時代を通して55番をつけ続けた〔「ベースボールマガジン1998年夏季号」54ページ。〕。 引退後は地元の名古屋に戻り中部日本放送(CBC)の野球解説者となったが、オフに濃人渉監督がその年に好成績を残しながら「東京六大学野球出身ではない」との理由で解任した本社の意向により、から再び中日監督に就任し、10年ぶりの現場復帰。就任1年目こそ読売ジャイアンツと優勝争いを演じるが(2.5ゲーム差の2位)、2年目のには開幕ダッシュに失敗した事を機に主力選手が反旗を翻し、最下位に低迷する。ある試合では、打者に「ホームランを打て」というサインを出したことがある。しかし打者がそのサインの意味を知らず凡退した。その後、しばらくして休養ののち辞任。チームは2リーグ分裂後初の最下位に沈んだ。権藤博は「私が現役時代に聞いた監督の話でこの人は抜群にうまいと思ったのが杉浦清監督だ。明大の大学院にまで進み、高文試験、今で言う国家公務員のキャリア組の試験を受けようとしたくらいの人だから、頭がいい方だと」と述べている〔悠々球論(権藤博)世界一短いミーティングの言葉、日本経済新聞、電子版 2013/11/19〕。 1965年から死去するまでは、CBC野球解説者の傍らOB会の会長を務めた。1987年8月22日、死去。満73歳没。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「杉浦清」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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