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李 萬洙(イ・マンス、、1958年9月19日 - )は、韓国の元プロ野球選手。韓国球界初の三冠王である。 == 経歴 == 江原道鉄原郡生まれ。育ちは大邱広域市。軍人だった父が江原道の赴任した時に生まれた。大邱商業高校、漢陽大学校を経て1982年に三星ライオンズに入団。 三星ライオンズ一筋で16シーズンを在籍した。チームと地元を代表する看板選手として、多大な功績により選手時代の背番号22番が三星ライオンズの永久欠番となっている。正式に永久欠番が決定される前も準永久欠番扱いで、引退後もその背番号を引き継ぐ選手はなく、三星ライオンズの歴史で22番をつけた選手は彼だけである。 チームを去って10年以上経った現在も地元大邱を代表するスター選手として、その人気は未だ萎えることがない。宣銅烈が三星の監督に就任し韓国シリーズで2度の優勝と結果を出した(2010年末に辞任)が、それでも李萬洙が監督として三星に復帰することを望む地元ファンの数も少なくなかった。まだ個々の選手にプロとしての意識が確立されなかった草創期の韓国プロ野球で、徹底的な自己管理で大卒でありながら現役生活を16年まで伸ばし、1982年に始まった韓国プロ野球元年メンバーの中で最後まで生き残った。 通算252本のホームランと861打点を記録した。本塁打記録は1999年に破られるまで韓国記録として残り、「韓国のベーブルース」とも呼ばれた。韓国プロ野球最初の公式戦の1回表、3点本塁打を放って、韓国プロ野球公式戦第1号本塁打、第1号打点も記録した。1983年には、最多本塁打のタイトルでKBOのシーズンMVPを受賞。 その翌年の1984年には打率.340、23本塁打、83打点を記録し、打撃三冠王となった。しかし、この年のMVP投票では、三星が韓国シリーズでロッテ・ジャイアンツとの対戦するために直接対戦で勝たせ試合と疑われる拙戦を繰り広げたことと、タイトルを取らせるために当時首位打者を争っていたロッテの洪文宗を味方投手陣が9打席連続で歩かせるなどをしたことが加わり、チーム全体として投票する記者に悪い印象を与えた。さらに、当の韓国シリーズでも、チームがロッテのエース、崔東源(チェ・ドンウォン)の力投の前に敗れた。結果、その年のシーズンMVPは公式戦27勝、シリーズ4勝の崔東源が獲得した。この打撃三冠のタイトルは2006年、ロッテ・ジャイアンツの李大浩が達成するまで韓国プロ野球史上唯一の記録であった。 攻撃では主軸打者として多大な貢献を重ねたが、守備では捕手として、やや重いフットワークと送球の悪さで、盗塁阻止は上手い方ではなかった。このため、1980年代の韓国シリーズで足でかき回す相手の戦略を防げることができず、毎度敗退する原因の一つとしてあげられ、批判が噴出した。ゴールデングラブ賞は5度受賞しているが、韓国のゴールデングラブ賞はメジャーで言うシルバースラッガー賞や日本でいうベストナインに近い扱いであるため、攻撃面での活躍を評価されたものである。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「李萬洙」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Lee Man-soo 」があります。 スポンサード リンク
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