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李 参平(り さんぺい、生年不詳 - 明暦元年8月11日(1655年9月10日))は、 朝鮮出身の陶工で、有田焼(伊万里焼)の生みの親として知られている。日本名は金ヶ江 三兵衛(かながえ さんべえ)。現在も直系の子孫が作陶活動などを行い、14代まで続いている。 なお「李参平」の名は、当時「三兵衛」を「参平」と表記した史料があること、金ヶ江家に伝わる古文書に李氏と記載があったことなどから、明治19年になって地元の蘭学者谷口藍田が名づけたものであり、参平が朝鮮で暮らしていたころのほんとうの姓名はわからない。 == 生涯 == 朝鮮忠清道金江(現・韓国忠清南道公州市反浦面)出身。1592年(文禄元年)から1598年(慶長3年)の文禄・慶長の役で、有田を含む肥前国の実質的な領主であった鍋島直茂(佐賀藩祖)が引き上げの際に日本に連れて来た陶工たちの一人で、日本で初めて白い肌の陶磁器「白磁」を作ったとされる。金ヶ江三兵衛の名を与えられた。 はじめ鍋島直茂の重臣多久安順に預けられ、小城郡多久に住んだ。一般に知られている説話によると、李参平は磁器生産に適した白磁石を求めて鍋島領内各地を転々とし、有田西部地区にて築窯。その後、1616年(元和2年)に有田東部の泉山にて良質で大量の白磁石を発見し、天狗谷窯(白川)の地で日本初の白磁器を産業として創業した。これが有田焼の起こりである、という。 有田の龍泉寺の過去帳には、明暦元年8月11日(1655年9月10日)没、戒名・月窓浄心居士と記されている。李参平の墓所は長らく忘れ去られていたが、1959年に天狗谷窯付近で戒名を刻んだ墓石が上半分を欠いた形で発見された。現在は墓石は白川墓地に移され、「李参平の墓」として有田町指定史跡となっている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「李参平」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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