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李商隠(り しょういん、812年(元和7年) - 858年(大中12年)。ただし、生年は813年の説あり)は、晩唐の官僚政治家で、時代を代表する漢詩人。字は義山、号は玉谿生。また獺祭魚と呼ばれる。懐州河内(現河南省沁陽市)の人。官僚としては不遇だったが、その妖艶で唯美的な詩風は高く評価されて多くの追随者を生み、北宋初期に一大流行を見る西崑体の祖となった。似たような婉約な詩風を特徴とする同時代の温庭筠と共に温李と呼ばれ、また杜牧と共に小李杜とも称される。 ==略伝== 李嗣の長男として生まれる。その祖は唐の宗室につながるというが、このころは没落し、父の李嗣は県令や監察史、節度使・州刺史の幕僚を務める地方官僚だった。その父は李商隠が10歳のころ病没している。他に2人の弟と6人の姉妹がいた。 当時、唐宮廷の官僚は、牛僧孺・李宗閔らを領袖とする科挙及第者の派閥と、李徳裕に率いられる門閥貴族出身者の派閥に分かれ、政争に明け暮れていた。いわゆる牛李の党争である。若き李商隠は、牛僧孺派の重鎮であった興元尹・山南西道節度使 令狐楚の庇護を受け、837年、26歳にして進士科に及第する。しかしながら同年に令狐楚が没し、翌年には上級試験にも落第すると、今度は李徳裕の派に属する太原公王茂元の招きに応じてその庇護下に入り、娘を娶った。翌839年、王茂元の働きかけにより文人官僚のスタートとして最も理想的といわれる秘書省の校書郎に任官されるも、牛僧孺派からは忘恩の徒として激しい謗りを受けることになった。以後も李商隠は、処世のために牛李両党間を渡り歩いたので変節奸と見なされ、厳しい批判を受けて官僚としては一生不遇で終わることとなる。 任官同年、早くも中央にいたたまれず、弘農県(河南省霊宝県南)の尉となって地方に出る。以後の経歴は、忠武軍節度使となった王茂元の掌書記、秘書省の正字、桂管防禦観察掌書記、観察判官検校水部員外郎、京兆尹留後参軍事奏署掾曹、武寧軍節度判官(もしくは掌書記)、太学博士、東川節度書記、検校工部郎中、塩鉄推官など、ほとんどが地方官の連続であり、中央にあるときも実職はなかった。端的に言えば干されたのである。また、さらにそれすらまっとうできずにたびたび辞職したり、免職の憂き目に遭っている。なおこの間、842年に母を亡くし、851年には妻王氏も喪っている。 そして858年、またも失職して郷里へ帰る途中、または帰り着いてまもなく病没した。享年47。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「李商隠」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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