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李 容九(り ようきゅう)は、大韓帝国の政治家。韓日合邦の推進者の一人。現在では親日派とされる。 == 生涯 == 両班の高位階級であった門閥の家に生まれた。若くして崔時享の東学に加入し、光緒20年(1894年)には甲午農民戦争を指揮して日本軍と戦った。光武2年(1898年)に李容九ら東学党は逮捕されたが、投獄中黙秘を続け、後に釈放された。光武5年(1901年)、東学党を天道教と改名した孫秉煕と共に訪日、日露戦争において親日に転じた。 光武8年(1904年)、宋秉畯と共に一進会を設立してその会長となる。アジア主義と大東合邦論を掲げ、アジアが団結して欧米帝国主義の侵略を阻止すべきであると主張。さらに日本と韓国が軍事同盟を結ぶことが、ロシアに対抗し、韓国の富国強兵を図る方法であると主張した。光武10年(1906年)には日韓合邦(韓国併合とは全く異なる概念)の最初の主張を行った。また同年に李容九の親日ぶりを警戒した孫秉煕と袂を分って天道教を脱退し、侍天教を設立してその教祖となった。隆熙3年(1909年)の伊藤博文の死後、李容九は一進会員との連名で「韓日合邦建議書」(韓日合邦を要求する声明書)を純宗、曾禰荒助韓国統監、李完用総理に提出している。隆熙4年(1910年)8月22日の日韓併合の後、9月25日に一進会を解散した。 李容九は、数度にわたる政治改革の失敗から、両班による下層階級への搾取虐待を朝鮮人自身の力で克服することを不可能と考えており、日本との合邦によって初めてこれが実現できると信じていた。日韓合邦については、内田良平とともに日本と韓国の対等な立場での合邦を希望し運動したが、実際には日本による韓国の一方的な併合となった。日韓併合によって、韓国皇族は王公族として日本の皇族、韓国の有力者らの一部は朝鮮貴族として華族に準ずる扱いを受けた。しかし日本政府に裏切られたと知ったとき、李容九は爵位を辞退した。 明治44年(1911年)、疲労から漢城病院に入院。翌明治45年(1912年)5月22日に須磨で悲嘆のうちに憤死した。 その間の経緯は黒竜会『日韓合邦秘史』(上下、1930年刊)及びその縮約である内田良平の『日韓合邦』に詳しく書かれている(竹内好「日本のアジア主義」)。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「李容九」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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