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李 広利(り こうり、? - 紀元前88年)は、中国前漢代の軍人。中山郡(現在の河北省定州市)の人、妹に武帝の寵妃李夫人と兄に武帝の寵臣の李延年がいる。なお、李広の名と似ているが別人である。 ==経歴== ===出世=== 当時、前漢は交易により多くの西域の名馬を手に入れていた。武帝は西域の名馬の中でも大宛の「汗血馬」を特に好んでいたが、大宛の弐師城に汗血馬が飼われていると聞き、使者を派遣して千金と金の馬で汗血馬を買うことを求めたが、使者は殺されて、金銭は略奪された。 若い頃の李広利は、元来無頼として定職に就かない勝手気ままな人物であったが、太初元年(紀元前104年)、武帝は寵愛している李夫人(李広利の妹)のために、李広利を「弐師将軍」に封じ、兵数万を率いて汗血馬を手に入れるため弐師城攻略に向かわせた。しかし、その道のりは遥かに遠く、諸城を攻略できずに食糧にもことを欠き、兵卒の多くが死んだり逃亡したりした。李広利はしかたなく撤兵して、敦煌に入り2年間を過ごす。これに武帝は激怒し、「玉門関より中に入るようなら斬る」と命令を下した。かくして李広利の率いる軍は敦煌塞(玉門関近くの漢の武帝時代に築かれた長城)まで戻った。 太初3年(紀元前102年)、武帝はもう1度大宛を再び攻めることを命じて、精兵6万、さらに牛10万頭、馬3万頭、ロバ・ラクダ1万頭余に軍の糧秣を運ばせ、これに加えて18万の部隊が後方より回りこみ、大宛外城に攻め入った。李広利の大軍は、40日余り大宛城を包囲攻撃して、無数の大宛兵を殺した。これに対して恐れをなした大宛は、漢軍が撤兵することを条件に、国王を先頭に投降し、あわせて3千数頭の「汗血馬」を漢に捧げた。これにより漢軍は玉門関にまで引き返したが、過酷な道のりのために、1万余の兵と馬千頭になっていた。李広利は凱旋し、海西侯に封じられた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「李広利」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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