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李 思賢(り しけん)は中華民国の政治家・司法官。中華民国維新政府、南京国民政府(汪兆銘政権)の要人。 == 事跡 == 福建公立専門学校専門科を卒業。霞浦県知事を経て、福建省で司法官となる。1917年(民国6年)、廈門で弁護士を開業した。1931年(民国20年)まで福建の弁護士会長をつとめ、中華弁護士協会理事なども兼ねている。 1938年(民国27年)1月、李思賢は廈門治安維持会司法処主任審判官となる。3月、廈門治安維持会会長兼高等法院院長となる。7月、中華民国維新政府において廈門市政府〔『最新支那要人伝』は、この時点で特別市政府が成立したとしている。しかし本記事では、特別市政府昇格につき、劉寿林ほか編『民国職官年表』の記述に従う。〕が成立すると、市長に就任した。さらに高等法院院長と特別市警察庁庁長を兼ね、廈門の政治・司法・警察をすべて自身の手で指揮している。 1940年(民国29年)に南京国民政府(汪兆銘政権)が成立しても、引き続き李思賢が廈門市長に留任している。1943年(民国32年)3月、廈門市は特別市に昇格した際にも、やはり李が引き続き特別市長をつとめた。1945年(民国34年)8月に汪兆銘政権が崩壊するまで、同職にあった。李の廈門統治は7年余りにわたったことになる。 中華人民共和国建国後の1951年1月19日、李思賢は廈門市人民法院により民衆裁判(「公審大会」)にかけられ、漢奸として処刑された。享年66。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「李思賢」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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