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李 成桂(り せいけい、イ・ソンゲ、太祖 康献大王 忠粛王4年10月11日(1335年10月28日) - 太宗8年5月24日(1408年6月18日))は、元(モンゴル)の武官、1357年から高麗の武官、李氏朝鮮の創始者にして初代国王。咸鏡南道の永興(金野郡)の出身〔姜(2006)〕。『李朝太祖実録』によれば本貫は全州李氏という〔太祖實錄 總序によれば、「太祖康獻至仁啓運聖文神武大王, 姓李氏, 諱旦, 字君晋, 古諱成桂, 號松軒, 全州大姓也。」であるので、本貫は全州李氏となる。〕。大韓帝国期に太祖高皇帝の称号を送られた。 == 略伝 == === 家系 === 朝鮮王室の根元である全州李氏の始祖は新羅で司空という役職に就いていた李翰と『太宗実録』など朝鮮王朝時代の歴史書には記録されており、また全州李氏の記録である『完山実録』には李翰は中国人だと記されている〔李(2006)〕が、これは朝鮮を初めて統一した新羅や、当時、東アジアの中心であった中国に連ねることで権威付けを図った可能性が推測され、現実の李翰は統一新羅時代から高麗時代にかけて全州地方に勢力をもっていた有力地方豪族だと考えられている〔。なお、全州李氏には百済時代末期から続く豪族・全州李氏に、鴨緑江流域に居住していた農耕と養豚を正業とする女真出身の李翰が養子として婿入りしたという伝承がある。 なお、出自については李一族の出身地の咸鏡道は15世紀までは女真族の領土だったこと、李一族が頭角を現したのは配下の女真族の助けが大きかったことなどから、李一族を女真族とする学説〔武田幸男編『朝鮮史』山川出版社〕(#女真族説参照)や李一族を高麗系モンゴル軍閥とする学説がある(#高麗系モンゴル軍閥説参照)。なお、モンゴル帝国は有能であれば、様々な民族を受け入れていたため、女真族である事と、モンゴル軍閥である事は矛盾しない。 李翰とその子孫たちは全州の有力者として影響力を持ち、1170年の武臣の反乱を契機に中央政界に進出した〔。しかし全州李氏一族の発展はすぐに躓くことになる。李成桂の六代前の李璘は兄の李義方と共に武臣の乱鎮圧の勢いに乗じて中央に進出したが、兄が出世競争に敗れると李璘も都から追放され、夫人も流離いの身となった〔。李璘の子で、李陽茂も苦難の日々を過ごした。そして彼らは都での権力闘争に敗れると、故郷の全州で一揆を起こした疑いまでかけられるようになる〔。ついに李成桂の四代前、李陽茂の子である李安社は180名に及ぶ一族郎党を率いて故郷を離れた。 最初彼らは江原道に定住したが、中央からの追手に見つかったため、当時元が支配していた咸鏡北道に亡命した〔。朝鮮王室の記録では「李安社が地方の役人と女を巡って激しく対立し、その役人が何かにつけて揚げ足をとり李安社を排除しようとした。それに堪えられなかった李安社は一族郎党を率いて江原道に避難したが、その役人が人事異動で江原道の責任者として来ることになったので、再び一族郎党を率いて咸鏡北道に移住した〔。そこは元の影響下にあり、国外亡命の様相を呈した」〔 *李大淳監修李成茂著『朝鮮王朝史(上)』金容権訳、日本評論社、2006年、78 - 79頁より引用〕と記している。しかし現在では研究が進んだ結果、これが事実ではないことが明らかとなった。その実態は中央政府の監視や圧力に耐えられなかったか、すすんで中央に反旗を翻した末に敗北して亡命に至ったと考えられている〔。 咸鏡道北部に亡命した李安社は元からダルガチの職責を与えられ周辺の女真族の統治を任された〔「壬辰倭乱、ヌルハチと朝鮮 2」、Kdaily(韓国語)、2007年2月8日〕。しかし女真族との間に徐々に対立が生じると、李成桂の曽祖父李行里(翼祖)は一族郎党を率いて南方の江原道安辺郡に移住した〔。全州李氏一族は磨天嶺以南(以北には女真族の集落が散在)の東北面を管轄する大勢力となり一種の独立政権を築いた〔。そして1335年、李成桂が双城総管府〔元々、高麗の領土であったが、1258年のモンゴル軍の第四次侵略において、高麗の土着の豪族が投降する動きがあり、これに対応してモンゴルは、和州(永興)に設置し、周辺を領土化した。 村井(1999)〕の和州(咸鏡南道の永興、現在の金野郡)で李子春と永興崔氏の子として生まれた〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「李成桂」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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