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李昌鍋 : ミニ英和和英辞書
李昌鍋[り, すもも]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [り, すもも]
 【名詞】 1. (Japanese) plum 2. prune 3. prunus salicina 
: [なべ]
  1. (n,n-suf) saucepan 2. pot 

李昌鍋 ( リダイレクト:李昌鎬 ) : ウィキペディア日本語版
李昌鎬[い ちゃんほ]

李昌鎬(イ・チャンホ、이창호、1975年7月29日 - )は、韓国囲碁棋士全羅北道全州市出身、韓国棋院所属、曺薫鉉門下、九段。国内棋戦優勝140回、1990年代から2000年代にかけて世界棋戦優勝21回を数える。棋風は序中盤はじっくり打ち、ヨセが強く「神算」と呼ばれ、「石仏」のニックネームもある〔『勝負する心 李昌鎬自伝』p67〕。
== 経歴 ==
1975年全羅北道全州で三兄弟の次男に生まれる。両親は教育熱心な韓国の家庭では珍しく、子供がやりたいことを自由にさせる人で、幼稚園の頃は弟とゲームセンターでよく遊んでいた。5歳頃のある日、祖父が友達と打っているのを見たのが碁と出会いで、アルカギや五目並べで遊んだ後、囲碁を学び夢中になっていった。それを見た祖父は地元の碁会所に昌鎬を連れて回って行った。祖父の教育法は独特で特定の講座やプロ棋士から学ぶのでなく、碁を打てる人であれば棋力の高低に関係なく誰とでも打たせる方針だった。囲碁を打つ子どもがめったにいない時代だったのですぐに昌鎬は全州の名物になる。その後碁会所の院長や全国のアマ高段者に指導を受け、中でも全国大会優勝の前歴を持つ李廷玉には千回を超える指導を受けた〔『勝負する心 李昌鎬自伝』 p11-15〕。
1983年の夏からプロの田永善(当時七段)に師事。囲碁を学んで2年目にヘテ杯全国子供囲碁大会ベスト16に残り最年少で奨励賞を受賞。翌年にはオッケンドム囲碁王戦で優勝。両親は昌鎬をプロの道に進ませることを決断し、田永善の紹介で当時棋戦年間全冠制覇を2回も果たしたトップ棋士・曺薫鉉と出会う。3子の指導対局をしたのち、1984年夏に内弟子入りする。当時はまだ韓国に内弟子慣習が無く、しかも引退間近ではなく全盛期のトップ棋士が内弟子をとるのは異例のことだった〔『勝負する心 李昌鎬自伝』p40〕。また、韓国棋院の研究生となり5級に登録される。
1986年第54回入段試験で入段。11歳と2日の入段は曺薫鉉に次ぐ年少記録〔曺薫鉉は入段直後に来日、崔哲瀚は入段後大学に進学したため実質初の韓国棋院年少プロ〕。入段後は梁宰豪劉昌赫尹盛鉉らと沖岩研究会を開いていた。2年目の3次予選で師の田永善と対局し勝利。そのまま最年少記録で本戦入り。1987年は勝ち星ランキング2位(44勝11敗)・勝率1位(80%)で締めくくる〔『勝負する心 李昌鎬自伝』p60〕。
1988年 国棋戦準々決勝で名人位7期など多数のタイトルを獲得した徐奉洙に勝利し話題を集める。12月24日最高位挑戦手合で、曺薫鉉との最初の師弟対決が実現するが1勝3敗で敗退する。続く覇王戦挑戦手合も曺薫鉉との対決となるが0勝3敗に終わる。敗れはしたものの11歳の新人棋士と35歳トップ棋士の師弟挑戦手合は韓国の話題を大いに集めた〔『勝負する心 李昌鎬自伝』p83〕。この年は75勝10敗で勝率第1位(88.24%・歴代1位)・最多勝・最多対局数(85局)・連勝記録(25連勝)の4部門を総なめにし6つの棋戦で本戦まで勝ち残りMVPに選ばれた。
1989年4月第2回富士通杯で公式世界大会初出場。1989年8月8日、KBS杯バドゥク王戦で金秀壮を2-0で破って初タイトルを獲得し、14歳最年少タイトル獲得記録となる。
1990年2月2日第29期最高位戦、曺薫鉉とのタイトル戦4回目の師弟対決を3-2で勝利。奇しくも曺薫鉉が初めて獲得したタイトルを弟子に移譲する事になりマスコミから「報恩対戦」と名づけられた。〔『勝負する心 李昌鎬自伝』94〕
1990年2月27日から9月2日まで41連勝を記録。1990年10月10日、最古の伝統ある国手を10年間守り続けた曺薫鉉から勝ち取る。この頃に、曺、徐奉洙劉昌赫とともに四強(四人幇)と呼ばれるようになる。
1991年、高校入学に合わせて曺薫鉉の元から独立。テレビ囲碁アジア選手権戦で準優勝。1991年沖岩高校に入学し、それとともに師宅を離れて一人暮らしを始める。この年「囲碁クラブ」誌の企画で依田紀基と五番勝負を行い、1-3で敗れ、以後しばらく依田を苦手とした。
1992年1月27日、第3期東洋証券杯世界選手権戦林海峰を退け、最年少世界タイトル獲得(15歳6ヵ月)の記録を打ち立てる。この模様はKBSテレビで全国放送されるほどの関心を集め、韓国にこども囲碁教室の新設ブームを起こした。〔『勝負する心 李昌鎬自伝』p107〕 この年の成績は87勝25敗・勝率77.7%。
1993年東洋証券杯で趙治勲に3-0で勝利し連覇。1994年2月第2回真露杯で韓国の優勝に貢献。ここから韓国勢が世界戦を制覇していく時代の始まりとなる〔『勝負する心 李昌鎬自伝』p118〕。
1994年は77勝20敗・勝率79.4%で13個のタイトルを獲得。通算タイトル数を39とする。
翌年満19歳になる昌鎬の兵役義務についてどうするかが議論となり、韓国棋院理事長の張在植議員を含め、一個人事としては異例の国会議員105名の連名で「李昌鎬後援会」が結成。それにより1994年12月6日兵役施行令49条の規定が変更され兵役特待が追加された。1995年3月27日、4週間の軍事訓練を受けた後。3年間公益勤務要員として勤務した。1998年3月26日招集解除。
1996年8月3日、第9回世界囲碁選手権富士通杯で初の海外で開催された世界大会で優勝。〔韓国内開催の世界戦では3回優勝している。〕。この年、真露杯・東洋証券杯・富士通杯・TV囲碁アジア選手権で優勝。日中韓三国特別招請世界囲碁最強戦ダブルリーグで4戦全勝。
2000年4月28日、第4回応昌期杯世界プロ囲碁選手権戦常昊に勝利し優勝。三星火災杯優勝・国内三冠王。
2001年、国際大会優勝2回・国内六冠王・通算100回優勝達成。
2003年、トヨタ&デンソー杯囲碁世界王座戦と第4回春蘭杯世界囲碁選手権戦に優勝し世界戦グランドスラム達成〔応氏杯・トヨタ・デンソー杯・LG杯・三星火災杯・富士通杯・春蘭杯をすべて1回以上優勝。〕。
2011年初め、国手戦に敗退し22年ぶりに無冠となる。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Lee Chang-ho 」があります。




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