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李 林甫(り りんぽ、? - 天宝11載(752年))は、唐代玄宗朝の政治家であり、唐朝の宗室。貴族派の代表として、張九齢など科挙出身者の派閥との権力抗争に勝ち、その後も他の政治家たちを謀略の末に追い落とし、19年も宰相の地位にあった。しかし、楊貴妃のいとこである外戚の楊国忠に権力争いに苦戦し、死後に庶民の地位に落とされた。安史の乱の遠因をつくるなど、唐王朝を衰退に向かわせたとされる。 李淵(唐の高祖)の祖父である李虎の5世孫にあたり、李淵のいとこにあたる長平王・李叔良の孫。絵画の名手として知られた李思訓の弟・李思誨の子にあたる。兄は李林宗、子に李岫、李崿、李嶼、李崒がいる。 ==生涯== ===宰相への道=== 陝西の出身。小字は哥奴。 音律と絵画に通じ、舅の姜皎に深く愛されたと伝えられる。『李林甫外伝』によると、20歳まで書を読まず、狩猟や蹴鞠を好み、洛陽で休むことなく遊んでいた。しかし、ある日、庫部郎中であった堂叔(父の従弟)のところに赴いて、才能が認められ、官職についたと伝えられる。 開元14年(726年)、御史中丞として、御史大夫・崔陰甫、同僚の宇文融とともに科挙派の首領・張説の弾劾に加わっている。その後、刑部侍郎、吏部侍郎を歴任する。 李林甫は表面は柔和であるが、ずるがしこく計算高く、宦官や后妃の家と結んで玄宗の意を探ったために、奏上することが全て旨にかなったという。そのため玄宗から信頼されたと伝わる。 さらに、玄宗に寵愛を受けていた武恵妃と組み、その子・李瑁の後ろ盾になることを誓ったため、黄門侍郎に抜擢されたと言われる。開元22年(734年)には、礼部尚書に昇進し、宰相となる〔『資治通鑑』より。『旧唐書』では翌年と記される。〕。この時、張説から科挙派の首領を継いでいた張九齢から反対があったため、張九齢と敵対することになった。しかし、李林甫は張九齢に偽って、へりくだったと伝わる。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「李林甫」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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