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李 根晳(イ・グンソク、)は大日本帝国陸軍及び大韓民国の軍人。創氏改名時の日本名は青木根晳。韓国空軍創設者の1人。 == 人物 == 1917年、平安南道平原に生まれる。 1933年、平壌高校を卒業。その後、17歳の時に日本に渡り、新聞社の給仕から少年飛行試験を合格した。朝鮮人として初なので現地の新聞社は大々的に報道したという。熊谷陸軍飛行学校の2期生として入学。同期の藤原武彦は「李は、とても性格のよい少年でした。軍人勅諭がなかなか覚えられなくて、班長に腕立て伏せをやらされて泣いていたが、器械体操は抜群にうまく、"お前は軽業師か"と聞いたことがあります」と回想している。 飛行第64戦隊に属し日中戦争やノモンハン事件で活躍した。 太平洋戦争初期、飛行第77戦隊に所属。ビルマの空中戦で被弾し、李は飛び降りたが落下傘が木に引っ掛かったためイギリス軍に捕えられてインドの収容所に送られ、4年間捕虜生活を送った。撃墜数は18機であった〔『朝鮮戦争/韓国篇 上巻』では支那事変で18機、大東亜戦争で5機撃墜としている。〕。 解放後は韓国空軍創設に参加し、1948年4月に航空幹部要員として歩兵学校に入校して5月に卒業後、少尉に任官。 1949年2月、陸軍航空基地司令部飛行団長。 1949年10月、空軍士官学校校長。 1950年5月、空軍飛行団長。 1950年6月25日、朝鮮戦争が勃発すると翌26日にアメリカからF-51Dを10機授与されることになり、李を含む10人が板付に派遣される。しかし雨が続き、訓練は出来なかった。 7月2日にようやく晴れたが、状況が切羽詰まっていることを感じた李は離着陸訓練を済ませただけで、米軍の制止を振り切り大邱まで飛行した。大邱に到着した李は金貞烈に「すぐ出撃させろ」と主張した。李によれば「地上部隊の士気を回復させるには、太極旗マークをつけたムスタングを見せてやるべきだ」という。金は李を叱りつけ、丸1日訓練させ翌3日に出撃命令を下した。そして7月3日に初出撃をした。 7月4日、金英煥、朴熙東〔少年飛行兵10期出身で飛行第50戦隊の生き残り。のち空軍准将。〕を連れて3機編隊で出撃し、安養上空で敵機を撃退し、南下中の戦車縦隊に攻撃した。しかし李はあまりにも低空で攻撃したため対空砲に当たり、そのまま戦車に突入して自爆した。死後、准将に進級、太極武功勲章を追贈された。金貞烈は「太平洋戦争を生き残った彼が、この戦争の出撃2日目に死ぬとは、…」と懐述した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「李根皙」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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