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李 相朝(リ・サンジョ、1913年又は1915年 - 1998年)は、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の政治家、軍人。中国名は金澤明。中国共産党の影響を受けた延安派に属していた。 == 経歴 == 1913年又は1915年に慶尚南道東莱区に生まれる。幼い頃に中国東北部(旧満州)に移住。1930年代より中国東北部(旧満州)などで抗日運動に参加する。中山大学を卒業。1938年8月、中央陸軍軍官学校星子分校特別訓練班を卒業して同年10月から朝鮮義勇隊で活動する。1939年に抗日軍政大学(第5期)を卒業。1940年、中国共産党に入党。1942年に朝鮮独立同盟や朝鮮義勇軍などに参加する。1942年末から北満州で地下工作を始め、1943年5月に巴彦県で朝鮮独立同盟第12支部、1945年8月20日にハルビンで朝鮮独立同盟北満特別委員会を成立させた。1945年9月にハルビン保安総隊朝鮮独立大隊を設立した。1945年11月、独立大隊は朝鮮義勇軍の幹部と合流して朝鮮義勇軍第3支隊が結成され、李相朝が支隊長に就任した。 1946年6月に朝鮮に帰国する。1948年9月の朝鮮民主主義人民共和国の建国に参加する。朝鮮労働党の党中央組織部長や商工副相となる。1950年6月に朝鮮戦争が始まると朝鮮人民軍の副総参謀長兼偵察局長、前線司令部参謀長などを歴任する。1953年に朝鮮人民軍中将となる。1953年7月に朝鮮戦争の軍事停戦委員会の中朝側首席代表となる。1955年8月に駐ソ連大使としてモスクワに赴任する。1956年4月に朝鮮労働党の党中央委員となる。 1956年に発生した金日成の独裁体制を打倒する8月宗派事件に参加する。その直後、ソ連に亡命する(北朝鮮外交官による初めての亡命事件)。亡命後、ミンクス大学で研究生活を送り政治学博士の学位を取得した。1989年にソウルを訪れ、朝鮮戦争は北朝鮮の南侵計画によって始まったことを暴露した。同年8月に韓国に移住する。1992年1月に脱北者の組織の「朝鮮民主統一救国戦線」に参加する。その後、1998年に病死。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「李相朝」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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