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老子(ろうし)は、古代中国の哲学者であり、後に生まれた道教は彼を始祖とする(老子自身が道教を作ったわけではない事に注意)。「老子」の呼び名は「偉大な人物」を意味する尊称と考えられている。春秋戦国時代の諸子百家のうちの代表的な一人であり、道家は彼の思想によって生まれた(道教と道家は別である)。書物『老子』(またの名を『老子道徳経』)を書いたとされるがその履歴については不明な部分が多く、実在が疑問視されたり、生きた時代について激しい議論が行われたりする。道教のほとんどの宗派にて老子は神格(en)として崇拝され、三清の一人である太上老君の神名を持つ。 史記の記述によると、老子は紀元前6世紀の人物とされる。歴史家の評は様々で、彼は神話上の人物とする意見、複数の歴史上の人物を統合させたという説、在命時期を紀元前4世紀とし戦国時代の諸子百家と時期を同じくするという考えなど多様にある〔Kohn (2000). Pg 4.〕。 老子は中国文化の中心を為す人物のひとりで、貴族から平民まで彼の血筋を主張する者は多く李氏の多くが彼の末裔を称する〔唐の王室もその一つであるが、唐王室はもともと八柱国の一つであり非漢民族であるため、僭称である。〕。歴史上、彼は多くの反権威主義的な業績を残したと受け止められている〔Bellamy (1993). Pp 64, 67.〕〔Roberts (2001). Pp 1-2.〕。 == 老子の履歴 == === 史記の記述 === 老子の履歴について論じられた最も古い言及は、歴史家・司馬遷(紀元前145年 - 紀元前86年)が紀元前100年頃に著した『史記』「老子韓非列伝」中にある、三つの話をまとめた箇所に見出される。 これによると老子は、姓は「李」、名は「耳」,字は「耼」(または「伯陽」〔竹林の七賢のひとり嵆康の著『聖賢高士伝賛』など中外日報社説 〕)。楚の国の苦県(現在の河南省〔鹿邑県〔楠山、p230-239、七、謎の人老子 1.『史記』「老子伝」の批判(1)〕)、厲郷の曲仁という場所の出身で、周国の守藏室之史(書庫の記録官〔)を勤めていた。孔子(紀元前551年 - 紀元前479年)が礼の教えを受けるために赴いた点から、彼と同時代の人間だったことになる。老子は道徳を修め、その思想から名が知られることを避けていた〔。しかし、長く周の国で過ごす中でその衰えを悟ると、この地を去ると決めた。老子が国境の関所(函谷関とも散関とも呼ばれる〔)に着くと、関所の役人である尹喜が「先生はまさに隠棲なさろうとお見受けしましたが、何卒私に(教えを)書いて戴けませんか」と請い、老子は応じた。これが後世に伝わる『老子道徳経』(上下2編、約5000語)とされる。この書を残し、老子はいずことも知れない処へ去ったといい〔貝塚、p87-89〕〔浅野、p50-56、一、『老子』の謎 『老子』の成立時期〕〔Fowler (2005). Pg 96.〕〔Robinet (1997). Pg 26.〕、その後の事は誰も知らない〔。(「老子」『列仙伝』においては大秦国、ローマ帝国へ向かった。) 「老子」という名は尊称と考えられ、「老」は立派もしくは古いことを意味し、「子」は達人に通じる〔楠山、p7-10、はじめに〕〔Luo (2004). Pg 118.〕〔Kramer (1986). Pg 118.〕〔Kohn (2000). Pg 2.〕。しかし老子の姓が「李」ならば、なぜ孔子や孟子のように「李子」と呼ばれないのかという点に疑問が残り、「老子」という呼称は他の諸子百家と比べ異質とも言える〔〔貝塚、p86-87〕〔氏族の姓「老」は実在し、宋には老氏という貴族がいた。しかしこの一族と老子を結び付ける証拠は無い。貝塚、p87〕〔墨子の「墨」も姓ではないという説がある。しかしこれは元々姓を持たない階層の人物「翟」が入れ墨を入れられた囚人階級出身だったとか、または同音である宋の「目夷」氏の姓が転じたという説などがあり(貝塚、p34-35 第二章 人類愛と平和についての対話)、老子の名づけとは性質が異なる。〕。 出身地についても疑問が提示されており、『荘子』天運篇で孔子は沛の地(江蘇省西北〔)に老子を訪ねている。また「苦い」県、「厲(癩=らい病)」の里と、意味的に不祥の字を当てて老子の反俗性を強調したとも言われる〔。曲仁についても、一説には「仁(儒教の思想)を曲げる(反対する)」という意味を含ませ「曲仁」という場所の出身と唐代の道家が書き換えたもので、元々は楚の半属国であった陳の相というところが出身と書かれていたとも言う〔〔貝塚、p87〕。 『史記』には続けて、 とあり、「老來子」という楚の人物がやはり孔子とは同じ時代に生き、道家についての15章からなる書を著したと伝える〔〔〔貝塚、p89〕。この説は「或曰」=「あるいは曰く」(一説によると〔)または「ある人曰く」(ある人物によると〔)で始められている通り、前説とは別な話として書かれている〔貝塚、p89-90〕。 さらに『史記』は、三つ目の説を採録する。 ここでは、老子は周の「太史儋(太史捶〔)」という名の偉大な歴史家であり占星家とされ、秦の献公在位時(紀元前384年 - 紀元前362年)に生きていたとしている〔〔。彼は孔子の死後129年後に献公と面会し、かつて同じ国となった秦と周が500年後に分かれ、それから70年後に秦から覇者が出現すると預言したと司馬遷は述べ〔、それは不老長寿の秘術を会得した160歳とも200歳とも思われる老子本人かも知れず、その根拠のひとつに「儋(捶)」と老子の字「耼」が同音であることを挙げているが、間違いかも知れないともあやふやに言う〔。 これら『史記』の記述はにわかに信じられるものではなく、学問的にも事実ではないと否定されている〔。合理主義者であった歴史家・司馬遷自身も断定して述べていないため〔これらを確たる説として採録したとは考えられず、記述も批判的である〔。逆に言えば、司馬遷が生きた紀元前100年頃の時代には、既に老子の経歴は謎に包まれはっきりとしなくなっていた事を示す〔貝塚、p90〕。 『史記』は老子の子孫についても言及する。 老子の子は「宗」と言い、魏の将校となり、段干の地に封じられた。宗の子は「注」、孫は「宮」、そのひ孫(老子から8代目の子孫)「假」は漢の孝文帝に仕えた。假の子「解」は膠西王卬の太傅となって斉国に住んだという。 この膠西王卬とは、呉楚七国の乱(紀元前154年)で呉王・劉濞に連座し恵帝3年(紀元前154年)に殺害された。武内義雄(『老子の研究』)や小川環樹(『老子』)は、これを根拠に1代を30年と逆算し、老子を紀元前400年前後の人物と定めた。しかし、津田左右吉(『道家の思想と其の展開』)や楠山は、この系譜が事実ならば「解」は司馬遷のほぼ一世代前の人物となるため『史記』にはもっと具体的な叙述がされたのではと疑問視している〔楠山、p239-247、七、謎の人老子 2.『史記』「老子伝」の批判(2)〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「老子」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Laozi 」があります。 スポンサード リンク
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