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李 舜臣(り しゅんしん、朝鮮読み:イ・スンシン、1545年3月8日(明暦:嘉靖24年) - 1598年11月19日(明暦:万暦26年)は、李氏朝鮮の将軍。字は汝諧(ヨヘ、)。文禄・慶長の役において朝鮮水軍を率いて日本軍と戦い活躍したとされるが、党争〔李氏朝鮮で恒常的に存在した官人による党派争い。朝鮮宮廷では文人が優位で、武人は下位に置かれて軽視されており、戦役前に西人派の鄭澈が王世子の擁立に際して宣祖の寵姫に讒言されて失脚し、替わって政権を手にした東人派の柳成龍が李舜臣を登用したという背景があったため、文禄の役の序盤で柳が一時失脚すると、李は後ろ盾を失った。〕の影響でしばしば讒言を受け、また、抗命したことで兵卒に落とされるなど浮き沈みが激しく、元均の戦死で復権したが、露梁海戦で戦死した。死後に贈られた謚は忠武公()。 == 前半生 == 本貫は徳水李氏。京畿道開豊郡の出身で、漢陽(別名:漢城、現:ソウル特別市)の乾川洞(現:中区乙支路)に生まれた。父は李貞。4人兄弟の三男で、兄弟の名前は上から順に羲臣、尭臣、舜臣、禹臣。彼ら兄弟の名前は中国の伝説上の帝王である堯、舜、禹などの一字を取って名付けられた。子は李薈、李䓲、李葂、李薰、李藎ら。 同時に、朝鮮の領議政(現在の首相に相当)となる3歳年上の柳成龍も同所で生まれており、李舜臣とは幼馴染の仲にあった。 李舜臣は幼い時から勇猛果敢な性格だったとされ、22歳から武科の試験(科挙)を受け始めたが、初の試験では落馬し、合格したのは1576年、32歳のときであった。李舜臣の母の実家がある忠清南道牙山市には李舜臣の功績を称える「顕忠祠」があるが、そこに展示されている資料には、李舜臣が武科に「丙科四位合格」(総合格者29人で12位。現職軍官ではない合格者の中では2番目)したとある。 李舜臣は下士官として女真と国境を接している咸鏡道を転戦したが、上司であった李鎰との不和により、罷免され、白衣従軍〔罰として将の資格を奪い、(身分の低い者を意味する)白装束の一兵卒として従軍させる屈辱刑。〕を命ぜられた。その後、彼の才能や不運をおしく見ていた全羅道の観察使(今の道知事)であった李珖の推薦により軍官(士官)に抜擢されて、全羅道の各地で軍官を勤めた。1589年1月、備辺司(現在の防衛省に相当)より軍官を不次採用(推薦採用)の公告が出て、当時、左議政の李山海の推薦を受け、李慶祿など共に全羅道の井邑の県監になった。李慶祿と李舜臣は、後の日本の朝鮮征伐の時に共に活躍した。しかし皮肉にも、李山海は柳成龍の政敵であった。自分が官職に推薦した李舜臣が柳成龍と親交が深いことを知って、李山海は李舜臣と距離を置くようになった。 李舜臣は、しばしば幼馴染みの柳成龍によって不遇を救われたが、文禄の役の前年である1591年に、柳成龍の推薦により全羅左道水軍節度使(略称:全羅左水使)に大抜擢された。この頃、柳成龍は右議政(現在の副首相に相当)の地位に出世していた。だが功績が少なかった李舜臣の大抜擢は、当時既に女真との紛争で功績を残していた元均など諸将から激しい反感を買うことにもなった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「李舜臣」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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