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李 賀(り が、791年 - 817年。貞元7年 - 元和12年)は、中国中唐期の詩人。字は長吉。官職名から李奉礼、出身地から李昌谷とも呼ばれる。昌谷(現・河南省洛陽市の西約50km)の人。その詩は伝統にとらわれずはなはだ幻想的で、鬼才と評された。 == 略伝 == 李晋粛の長男として生まれる。その祖は唐の高祖李淵の叔父の大鄭孝王李亮であるという。その長男の淮安靖王李寿(字は神通)、さらにその十一男の呉国公・益州大都督李孝逸から3代あとの子孫が李晋粛であるという。李賀はその出自を大いに誇り、出身地を唐帝室と同じく朧西成紀(甘粛省天水市)と称していたものの、李賀の生まれたころには中産階級に没落していた。父の李晋粛はまた杜甫の親族で、陝県令など地方官をもっぱらとする中堅官僚だった。陝県は洛陽と長安の両都を結ぶ途上に位置する要地で、帝室の血を引く者をその令に当てるのがもっぱらであった。母は鄭氏。他に王族に嫁いだ姉と弟(李猶?)がいたことがわかっている。 李賀は文学的に早熟で、14歳にして数々の楽府を著して名声を得ていた。また17歳ころ、自作の詩を携えて当時文壇の指導者的存在であった韓愈を訪ね、激賞とその庇護を受けた。810年、進士を目指して長安に上京し科挙に応じるが、思いもよらず受験を拒まれる。父の諱の一字である「晋(シン)」と進士の「進(シン)」が同音であることから、諱を避けて進士になるべきではない、というのがその理由であった。もちろんこじつけにすぎず、直ちに韓愈が『諱の弁』を表して反論を行うが通らなかった。当時、およそ知識人階級は進士となって科挙を通り、官僚政治家となることを唯一の目的とした。その道を閉ざされた李賀は、失意のうちにひとたび長安を離れて昌谷に戻るが、翌年、奉礼郎の官職を得て再び上京する。しかし科挙を経ずして与えられたこの官職の品階は従九品上、祭礼の際に席次を管轄する端職にすぎず、自負心の強い李賀には到底耐えられるはずもなく、813年春、「奉礼 官卑しく復た何の益有らん」の詩句を残し、職を辞して帰郷するに至る。ちなみにこの奉礼郎という官職も帝室の血縁者に当てるのが通例であった。その翌年、別に職を求め、友人の張徹を頼って潞州(山西省長治県)に赴くも意叶わず、昌谷に戻った翌年の817年、にわかに発した病により、母に看取られながら短い生涯を閉じた。享年27。 『李賀小伝』を著した晩唐の詩人李商隠によれば、李賀の風貌は痩せて細く、濃い眉毛は左右がつながり、爪が異様に長かったという。またおよそ円満とは程遠い性格で、しばしば他人から攻撃・排撃を受けた。科挙を阻まれたのもその性格が一因であろう。文壇の大家で、官僚としても宰相となった元稹と確執があったゆえ、との逸話もあるが、年代的に怪しい。没した際、李賀を恨む従兄弟の手で遺稿が便所に投棄されたため、現存作が少ないとの逸話もまたある。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「李賀」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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