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李 鳴鐘(り めいしょう)は中華民国の軍人。初め北京政府、国民軍に属し、後に国民政府(国民革命軍)に属した。馮玉祥配下の「五虎将」〔他の4人は、張之江・鹿鍾麟・宋哲元・劉郁芬。ただし李鳴鐘の代わりに鄭金声が列せられることがある。〕の1人とされることがある。字は曉東。 == 事績 == 1909年(宣統元年)、陸軍随営学堂を卒業し、以後軍歴を順調に重ねていく。1921年(民国10年)、河南督軍馮玉祥の下で歩兵旅長兼帰徳鎮守使(帰徳は現在の商丘市)に任命された。1922年(民国11年)、第11師第21旅旅長兼豫東鎮守使に転じた。 1924年(民国13年)、第8混成旅旅長に異動し、同年10月の北京政変(首都革命)後に、国民軍第1軍第6師師長に昇進した。1925年(民国14年)1月、署理綏遠都統に任命される。1926年(民国15年)、甘粛軍務督弁に任命されたが、実際に赴任はしなかった(代理は劉郁芬)。その後、京師警備代理総司令兼警備総監に任命されている。 国民政府では、1927年(民国16年)に軍事委員会委員に任命された。1928年(民国17年)、鄭州市長兼国民革命軍第2集団軍総指揮に任命される。後に、西北政治工作委員会委員長に任じられた。同年9月、河南省政府委員、国軍編遣委員会委員兼遣置部主任に異動する。その後、馮玉祥配下から次第に離脱していき、1930年(民国19年)、鄂豫辺区綏靖督弁に任命される。1931年(民国20年)、第22路総指揮兼第30師師長に任じられた。 その後、軍事参議院参議に異動する。1937年(民国26年)5月には、河南省政府委員の地位を罷免された。1948年(民国37年)2月、監察院監察委員に任命されている。1949年(民国38年)6月、上海で病没した。享年64。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「李鳴鐘」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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