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李無影(り むえい、1908年1月14日 - 1960年4月21日)は、朝鮮の小説家。号は無影、本名は龍九。同時代の多くの作家が同人を形成していたのに対し、李は孤独に文学修行を極めた。その筆は貧苦を嘗める農民へ向かい、「農村文学の先駆者」と形容される。 == 略歴 == 1908年1月14日、忠清北道陰城郡陰城邑碩人里(俗称・オリコル)に生まれた、とされる。7人兄妹の次男。父は李徳汝。裕福とはいかないまでも、暮らしに困るほどではない中流の家であった。後に詩人となる李冾(李康冾)と同郷である。 11歳の時、兄の乙用を頼って上京し、翌年、徽文高等普通学校に入学する。李が文学を志す契機となったのは中学2年のときに読んだ田山花袋の『蒲団』に心動かされたからだという。1925年、卒業を間近にして釜山に渡り、雑役夫をしながら日本に渡る準備をした。その年、日本に渡り、加藤武雄の門下生となった。そうして4年間、徳田秋声、久米正雄、志賀直哉、島崎藤村からフランス文学、ロシア文学まで渉猟し、文学修業に精を出した。留学中、盧子泳と会い、盧が経営する青鳥社から処女作『よりどころなき青春』、そして『廃墟の涙』を出版することになる。しかし、李の名はこの頃まだ知られることはなかった。 1929年、帰国後、教員、出版社や雑誌社を転々としながら執筆活動を続け、1932年頃から著作家としての真価が表れ始めた。1934年5月に、東亜日報社に入社する。このときの同僚に徐恒錫、李殷相、卞栄魯、朱耀燮などがいた。1935年、同じく東亜日報に勤めていた申永均の仲介で申の妻の妹である高日新と結婚する。1936年に日章旗抹消事件によって『東亜日報』が停刊になり、職を失った李は李冾と文芸雑誌『朝鮮文学』を創刊した。しかし、思うようにはいかず、京畿道の宮村に引きこもった。 宮村に引きこもった李は、ここで農村小説を書き綴る。その主人公は李自身であり、苦生した父の影であった。しかし、李は実際に農業に携わってはいない。また、父と一緒に住んでいたわけでもなかった。 1945年8月15日の解放後、朝鮮戦争が始まると、文友の尹白南、廉想渉らと一緒に海軍に入隊、3年半勤務した。1956年、ソウル市文化賞を受賞する。同じ年、李軒求、白鉄、異河潤と共に国際ペンクラブ・ロンドン大会に参加した。1960年4月21日、突然の脳溢血によって逝去する。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「李無影」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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