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村上 亘(むらかみ わたり、文化3年(1806年) - 明治13年(1880年)7月31日)は、幕末の武士(笠間藩士)、剣術家(示現流)、砲術家(神発流)。諱は義知、後に義衛。幼名は宗之助。 == 経歴 == *文化3年(1806年)、笠間藩の示現流剣術指南番・村上善左衛門(120石)の子として常陸国笠間(現 茨城県笠間市)で生まれる。 :村上家は代々、藩の示現流剣術指南番で、父より剣術を学んだ。 *文政4年(1821年)、中小姓として出仕。 *天保8年(1821年)、父・善左衛門の師範代となる。 :この時期、村上亘と山本鉄之丞(唯心一刀流)は笠間の剣術の双璧として並び称されており、水戸藩から剣術家が何度も訪れ、亘や鉄之丞に試合を挑んだが勝てなかったという。 *安政2年(1855年)、家督を継ぎ、藩の示現流剣術指南番となる。翌安政3年(1856年)には、講武館懸に就任し藩校・講武館の運営に携わる。 *安政4年(1857年)には、隣の水戸藩の砲術師範に登用される。(後に笠間藩でも砲術師範になる) *安政6年(1859年)、時習館(文館)・講武館(武館)・博菜館(医学館)に分かれていた笠間藩の藩校を統合した、新たな藩校・時習館の初代学頭に就任する。 *明治初期の笠間藩の軍制改革で、砲頭・大砲隊司令に就任する。 *廃藩後の明治11年(1878年)、「剣道会」を結成し撃剣興行を行った。 *明治13年(1880年)7月31日、死去。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「村上亘」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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