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村下 孝蔵(むらした こうぞう、1953年2月28日 - 1999年6月24日)は、日本のシンガーソングライター。「初恋」「踊り子」「ゆうこ」「陽だまり」などのヒット曲がある。熊本県水俣市出身。水俣市立水俣第一小学校、水俣市立水俣第一中学校、鎮西高等学校、日本デザイナー学院広島校インテリアデザイン科卒業。 == 人物 == === 生い立ち === 1953年2月28日、熊本県水俣市浜町仲之町通りで、映画館(村下興業社)を営む夫婦の第3子として生まれる〔365日 あの頃ヒット曲ランキング 【1983年6月】初恋/村下孝蔵 〕。最盛期の村下家は、水俣市と周辺に7軒の映画館を経営した資産家だった〔『朝日新聞be』「うたの旅人」2009年2月14日〕。生まれて間もない頃の村下は泣くことが少なく、近隣の住人に「生まれたと聞いたけれど泣き声がしない」と不思議がられたという 〔落合2008、14-15頁。〕。村下は、そのまま無口な少年に育った。姉によると、幼少期の村下は実家が営む映画館で一番前の席に座って映画を観たり〔落合2008、17-18頁。〕、一緒にラジオで歌謡曲を聴いたりして過ごすことが多かった〔落合2008、39頁。〕。 1959年、父が鹿児島県出水市に新たな映画館を建てると一家は転居し、1年ほどで水俣市仲之町通りに戻った〔落合2008、50・62頁。〕。この頃、村下は姉とともにロカビリーに夢中になった。村下は日劇ウエスタンカーニバルの映像を映画館で観て、歌手への憧れを口にすることもあった〔落合2008、63-65頁。〕。映画館の事務所には休憩時間にかけるレコードが置かれていて、村下は姉とともに聴き漁った〔落合2008、92-93頁。〕。村下はエレクトリック・ギターの音に興味を抱くようになり、寺内タケシとブルージーンズを好んで聴いていたが、やがて「こっちのほうがすごい」とベンチャーズに夢中になった〔落合2008、93-95頁。〕。1965年、映画『エレキの若大将』で加山雄三の「夜空の星」を聴いたことをきっかけに「ボクも作曲する。歌う。エレキギターも持つ」と言うようになる〔〔〔落合2008、122-123頁。〕。村下はかねてから両親に、エレキギターをせがんでいたが、「不良になるからダメ」〔当時の日本にはエレクトリック・ギターの所持が少年不良化につながるという風潮があった(落合2008、93頁)。〕、「弾けもしないうちから買ってどうする」といった理由で聞き入れられなかった。そこで村下は、加山のギターをモデルにラワン材を使ってギターを自作した〔〔落合2008、123-125頁。〕。ギターが完成すると三面鏡の前に立ち、加山の演奏スタイルを真似ていたという〔落合2008、125-126頁。〕。高校進学後の1969年、村下は憧れだったモズライト・ギターを父親から買い与えられた〔落合2008、162-163頁。〕。父親は1967年に収益の悪化していた映画館を廃業し〔落合2008、134-135頁。〕、新たな事業として温泉の採掘を行ったが失敗、その後は阿蘇市のホテルに就職し、母親とともに転居〔落合2008、164頁。〕。村下は、水泳部の特待生として鎮西高等学校に入学し〔落合2008、148頁。〕、寮生活を送った後、北九州市の短期大学に入学した姉と熊本市内で同居した〔落合2008、164-165頁。〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「村下孝蔵」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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