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村山党(むらやまとう)とは、平安時代から鎌倉時代にかけて、武蔵国多摩郡村山郷(現在の入間川付近)に勢力のあった武士団の事。武蔵七党の一つ。野与党と同族である。 == 歴史 == 平頼任が北多摩郡村山に住み、村山氏と名乗ったと言う。村山頼任の子孫とされる一族を村山党と呼ぶ。主な一族には金子氏、宮寺氏、山口氏、仙波氏などがある。子孫は狭山丘陵の北部の武蔵野の台地上に広がっている。金子十郎・山口六郎は共に台地上の畑地を占め、仙波七郎の居も川越市仙波で台地上で前面には荒川の低地の水田が広がっている。三条町の条里地域の西北方約十キロメートルの地点である。条里の遺構は不明瞭である〔柴田孝夫『地割の歴史地理学的研究』(古今書院、1975年)239頁〕。彼らの名字の地(本貫)は現在でも地名として入間市金子、入間市宮寺、川越市仙波、所沢市山口などに残っている。 平安時代、保元の乱では後白河天皇方として金子家忠や仙波家信が活躍した。治承・寿永の乱では、当初村山党は他の武蔵の武士団のほとんどと同じく平家方だった。吾妻鏡によれば、治承4年、武蔵の平氏方の中心的存在である秩父党畠山氏の畠山重忠に従い、村山・金子氏の一党も相模国の三浦氏を攻撃している(衣笠城合戦)。その後畠山氏と同じく源頼朝の傘下に入った。 鎌倉時代以降、村山党には金子氏や仙波氏など伊予国を初めとする西国に所領を得たものも多かったが、武蔵では秩父党棟梁の河越氏に従っていた。鎌倉時代末期には河越高重に従い新田義貞の倒幕軍に加わり、分倍河原の戦いなど倒幕の原動力になった。 室町幕府が成立すると、鎌倉公方や関東管領の支配が強くなり、応安元年(1368年)1月、河越直重を中心に武蔵平一揆を起こすがあえなく鎮圧される。山口高清などは自害し村山党諸氏は没落した。以降村山党諸氏は関東管領上杉氏家臣の大石氏に従う。 戦国時代になり上杉氏が後北条氏に敗れ没落すると、主家を失った大石定久は北条氏康の三男・北条氏照を娘婿に迎えて家督を譲った。以降、後北条氏の支配下となった。小田原征伐で後北条氏が滅亡し徳川家康が関東に入ると、その支配体制に組み込まれた。村山党の子孫の一部は、徳川氏の旗本となって存続した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「村山党」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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