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村岡 みどり(むらおか みどり、1932年9月13日 - 1994年〔)は、日本の翻訳家、歌人。日本国際児童図書評議会会員。東京市大森区(現、東京都大田区)出身〔。『赤毛のアン』などの翻訳で知られる翻訳家・村岡花子の養女。東洋英和女学院、青山学院大学卒業。 == 略歴 == 1932年(昭和7年)、村岡花子の次妹・梅子と書家・坂田巌の長女として誕生〔。奇しくも6年前に5歳で早世した、従兄にあたる花子の長男・道雄と同じ誕生日のため、奇妙な縁を感じた花子に溺愛され、後に妹夫婦の理解のもと村岡儆三・花子夫妻の養女として引き取られた〔。 大学生であった1952年(昭和27年)頃、近所の子供たちが花子の蔵書から童話を借りていたことから、自宅を児童図書館として開放することを提案し、同年に「道雄文庫ライブラリー」が開館に至った。みどりは自ら館長を務め、来館する子供たちを優しく世話しており、子供たちにとっては「優しいお姉さん」「憧れのお姉さん」であった。1957年(昭和32年)には花子や翻訳家の石井桃子らとともに「家庭文庫研究会」を発足させ、子供たちの読書の向上に尽力した。 1959年(昭和34年)、物理学者の佐野光男(後の村岡光男)と結婚。花子のもとを離れて田無市に転居する〔。1966年(昭和41年)、夫がアメリカに客員教授として招かれ、カリフォルニア大学デービス校の客員教授になった際に一家でデービスに移住(この間に娘の美枝が英語を習得し、後に翻訳家となる)。帰国後は大阪府池田市に転居。 花子の没後、花子が夫亡き後の生活を綴った随筆集の出版を計画していたことから、みどりはその遺志を継ぎ、遺稿集として翌1969年(昭和44年)に『生きるということ』を出版した。 後に、娘たちの通う東久留米市立第三小学校のPTA文芸クラブで短歌と出逢う。娘の卒業とともに、このクラブが市のサークルとして発足。以来20年近く、みどりにとって短歌は自らを支え、自らを鞭打つ手立てとなった。1990年(平成2年)に歌集『半生のうた』を刊行。 さらに後、東京の花子宅の書斎を「赤毛のアン記念館・村岡花子文庫」として開放することを提案。1991年(平成3年)に開館し、花子の著作物や蔵書の保存、同時代の児童書の保存の場となった。 次女の恵理の著書『アンのゆりかご』によれば、1994年(平成6年)、東京の花子宅の改築が始まった後、みどりはその完成前に死去したとのことである。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「村岡みどり」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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