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村田 新八(むらた しんぱち、天保7年11月3日(1836年12月10日) - 明治10年(1877年)9月24日)は日本の武士(薩摩藩士)・政治家。 == 経歴 == === 薩摩藩士時代 === 天保7年(1836年)11月3日、薩摩国鹿児島城下加治屋町山之口馬場(高見馬場方限)で高橋八郎の第三子として生まれ、幼にして村田十蔵(経典)の養子となった。初めの名は経麿、のち経満(つねみつ)に改む。通称を新八という。三男一女あり、長男の岩熊は西南戦争に従軍して田原坂で戦死、次男の二蔵は鹿児島に戻る途中で負傷、命をつないだ。 村田は年少のときから西郷隆盛に兄事し、尊王の志を抱いた。文久2年(1862年)3月10日、熊本藩士・宮部鼎蔵らが入薩しようとしたとき、有馬新七らと市来駅で宮部らと会して時事を談じ、入薩を断念させた。この後に島津久光進発に先立って上京した西郷・村田と森山新蔵は諸藩の情勢を探っていたが、真木保臣・有馬新七らの京都挙兵(寺田屋騒動)を煽動したと久光から疑われ、呼び戻されて西郷は徳之島(再命で沖永良部島へ変更)へ、村田は喜界島(薩摩硫黄島(鬼界ヶ島)ではない)へ遠島された。このときの喜界島での生活を記した「宇留満乃日記」は今も残っている。元治元年(1864年)、赦免された西郷は途中、喜界島へ寄って村田を鹿児島へ連れ帰った。 慶応2年(1866年)1月4日、黒田清隆が薩長同盟のために長州藩士の木戸孝允・三好重臣・品川弥二郎・土佐浪士田中光顕らを伴って上京したとき、西郷に従い伏見に出迎えた。同年7月、黒田らと山口に赴いた村田は、長州藩主・毛利敬親に謁し、黒田と別れた後の29日、伊藤博文らとともに長崎を出航して上海を訪問し、帰国後に帰藩した。慶応3年(1867年)7月7日、薩土盟約の事情を記した西郷の書簡を持って山口を訪れ、帰りに品川弥二郎・世良修蔵を伴って上京した。同年10月、西郷の王政復古論で藩論が統一すると、村田は中岡慎太郎らと大村藩・平戸藩などを遊説し、馬関で坂本龍馬・伊藤博文らと会し、毛利公に謁見したのちに上京した。12月4日、黒田清隆・山田顕義と同行して京都より西宮に至り、王政復古の発令が近いことを長州藩兵に告げた。12月11日、山野田一輔らと二条城下を通り過ぎたとき、新撰組の隊士と衝突し、山野田が1名を斬り、村田らは微傷を負ったが、これを退けた〔『山野田政養日記』に依る。『維新史料綱要』には「12月11日、……鹿児島藩士村田新八・同川股喜兵衛等、旧京都守護職松平容保邸附近に於て、会津藩士と闘争し、互に死傷あり」とある。会津藩士が正しいのか、会津藩御支配の新撰組が正しいのかは不明。事件当事者の日記の方に信頼性を置いた〕。 村田は、戊辰戦争開始時(明治元年(1868年))は遊撃二番小隊の監軍であり、鳥羽・伏見の戦いのときは御台所御門の警備をしていたが、のちに淀の戦い・八幡の戦い・受け取り・姫路進撃(姫路藩が降伏したので、明石まで行って帰る)などにも出陣した。東海道軍東上前の編成替えで城下二番小隊の隊長になった。しかし、西郷の幕下にいたらしく、監軍の辺見十郎太が代理の隊長をつとめることが多かった。2月12日に東征大総督府の下参謀となった西郷は、中村半次郎(一番小隊長)・村田新八(二番小隊長)・篠原国幹(三番小隊長)らで構成される先鋒隊を指揮して2月25日に駿府、27日に小田原へ進んだ。東海道の要衝箱根を占領したのち、西郷は静岡へ引き返し、ここで輪王寺宮公現法親王(北白川宮能久親王)の和解請願の使者を退け、幕臣・山岡鉄舟と会談した。次いで江戸へのぼった西郷は勝海舟と江戸開城交渉のための会談をした。この間、村田は小隊を率いて、西郷に随従するとともに、会談を護衛した。上野戦争の後は二番小隊を率いて東山道軍の応援に赴き、5月26日の白河奪還戦(棚倉口を担当)、二本松戦を経て、会津若松城攻囲戦に参加した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「村田新八」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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