|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ 村 : [むら] 【名詞】 1. village ・ 田 : [た] 【名詞】 1. rice field ・ 銃 : [じゅう, つつ] 【名詞】 1. gun (barrel)
村田銃(むらたじゅう)は、薩摩藩・日本陸軍の火器専門家だった村田経芳がフランスのグラース銃(金属薬莢用に改造されたシャスポー銃)の国産化を図る過程で開発し、明治13年(1880年)に日本軍が採用した最初の国産小銃。 建軍当時の大日本帝国陸海軍は、陸軍がイギリス製のスナイドル銃、海軍が同マルティニ・ヘンリー銃を使用していたが、村田経芳が十三年式村田銃の製造に成功したことで、初めて「軍銃一定」(主力小銃の統一・一本化)が成し遂げられた。このことが後の日清戦争において、雑多な小銃を用いる清軍に対し、日本軍の優位につながる一因となった。 村田銃の出現は火縄銃以来の300年の欧米とのギャップを埋め、国産銃を欧州の水準へ引き上げた。また、旧式化した後に民間に払い下げられ、戦前戦後を通じ日本の猟銃の代名詞的な存在ともなった。 == 村田銃の出現まで == 江戸時代後期に入り、阿片戦争など欧米列強のアジア侵略が露骨化し、日本国内でも西欧軍事技術の研究が盛んになり、各種の銃砲が積極的に輸入されるようになった。 これらの銃砲を国産化しようと努力した諸藩のうち、集成館事業によって大規模な殖産興業政策を採った薩摩藩の家臣だった村田経芳は、豊富な火器知識と卓越した射撃の技量により、薩摩藩兵から新生日本陸軍の将校に転じ、薩摩閥の大久保グループに属して日本陸軍の火器購入・運用・修理の統括責任者となった。 明治維新期は火器が飛躍的に発達しはじめた時期にあたり、様々な形式の火器が出現して数年を置かずに瞬く間に旧式化するというサイクルが繰り返されており、各藩から集められた火器は新旧各種が混在した状態だった。 発足したばかりの新生日本陸軍での歩兵教練は、輸入されたテキストを日本語に翻訳したマニュアルとお雇い外国人による指導〔陸軍省各局文書 卿官房 明治6年7月 山県陸軍卿 明治6年7月18日 「一歩兵操典 大隊ノ部 小隊ノ部 各一冊 右ハ今般教使エレマン氏講義ヲ@リ兵学寮於テ正@候条其局於テ活阪ヲ以テ改編取計可申此旨相達候事 明治六年七月十日 山県陸軍卿 第六局」 〕に頼っており、1872年(明治5年)兵部省によって1870年版フランス陸軍歩兵操典 〔公文別録・陸軍省衆規渕鑑抜粋・明治元年〜明治八年・第十一巻・明治四年〜明治八年 兵部省 明治5年2月12日 「東京鎮台歩兵練兵式ヲ定ム 東京鎮台 其台本営歩兵之儀西暦一千八百七十年式ニ相定候間歩兵操典ニ基キ可致練兵候事衆規淵鑑 〕が、次いで1874年(明治7年)に陸軍省によって1872年版同操典が採用〔陸軍省大日記 「大日記 諸寮司伺届弁諸達 1月金 陸軍第1局」 陸軍省 明治7年1月 「但仏書右此戸山出張所ニ於テ入用ニ付至急貸渡相成度此段相伺候也 曽我兵学頭代理六年十二月二十三日 兵学助 保科正敬山縣卿殿伺之通但買上下貸渡事 一月十三日 第六十九号千八百七十二年式仏歩兵操典 三部右歩兵科教師通弁課之者職務用必要ニ付至急御貸渡相成度尤御貯蔵乞之候事 実上御渡相成候様致度此段相伺候也」 〕された事から、その主力小銃は全て後装式〔後装式のメリットは、その連射性と伏射姿勢を維持したまま弾薬の装填が可能な点にあった。〕に統一された。 当時の日本陸軍が保有していた後装式火器には各々長短があったが、スナイドル銃(金属薬莢式〔スナイドル銃に使用された.577 Snider弾薬は、1866年にイギリス陸軍に採用されたボクサー型雷管を使用する一体型薬莢であり、開発当初は真鍮製の基部と紙製の側筒部を組み合わせて製造されていたが、ほどなくして真鍮素材から一体成型された金属薬莢へ発展し、ボクサー型薬莢と呼ばれるようになった。 ボクサー型薬莢は現代でもほぼ原型のまま使用されているほど完成度が高く、金属で密閉された発射薬と点火薬は環境の影響を受けにくく、多湿・多雨なアジア地域においてもその信頼性は比類なきものだった。 〕〔スナイドル銃は、各藩が多数の在庫を抱えながら旧式化してしまった前装式エンフィールド銃に、比較的簡単な加工を施すだけで製造できたため、コストパフォーマンスに優れており、日本陸軍のみならず各藩の鉄砲鍛冶の手になる無数の改造例が存在していた。 陸軍軍政年報(明治八年の項より) 第五 砲兵事務 (明治八年)九月ヨリ官員ヲ派出シ長門国萩沖原ニ於テ「エンピール」統ヲ「アルミー」銃ニ改造ヲ始ム 「スナテトル」弾製造器械来着セリ(八年九月)此器械ヲ用ユルキハ大凡一日五万発ノ弾ヲ製造スルコトヲ得ル〜和歌山属廠ハ(当)時「ツンナール」ヲ用ヒサル因ヲ閉廠〜 (注:アルミー銃とはスナイドル・アルミニー(歩兵)銃の意味) 〕〔スナイドル銃は最初期の後装銃だったため、薬室先端から弾丸がライフリングに喰い込む部分の調整が技術的に未確立な状態にあった。 エンフィールド銃では油紙に包まれた状態で装填されていた弾丸が、スナイドル銃では直接ライフリングと摩擦する構造に変更されたため、弾丸の初速を上げすぎると、摩擦熱で溶けた鉛がライフリングに付着して蓄積し銃身の寿命を短くするため低初速でしか使用できず、弾道特性の向上は期待できなかった。 また、エンフィールド銃から簡単に改造できる事を優先したデザインだったため、撃発機構は管打ち式から流用されたサイドハンマー式のままで、射撃の際に銃身軸線へ大角度で打撃が与えられて重力干渉が生じ、命中精度の向上と有効射程距離の延長は期待できない構造だった。 スナイドル銃弾薬は高い信頼性を有したが、その製造には大規模な設備と工業インフラの存在が不可欠であり、1877年(明治10年)までに同弾薬の国産化に成功していたのは集成館事業の蓄積を有した旧薩摩藩だけで、東京・大阪に基盤を置く新政府にとって、薩摩以外の供給源は輸入品しかなく、この事が薩摩閥の内紛が内戦に拡大した西南戦争勃発要因のひとつとなった。 〕)が主力小銃となり、ドライゼ銃(紙製薬莢〔ドライゼ銃(普式ツンナール銃)は、弾丸がサボットに包まれた状態でライフリングにより回転を与えられる構造であり、銃身への鉛の付着やライフリングへの喰い込みの問題はなかった。撃発機構も銃身軸線と並行して撃針が前後するボルトアクション式であり、命中精度への悪影響は極めて小さかったが、使用する弾薬が紙製薬莢式だったため環境の影響を受け易く、多湿・多雨な日本では発射薬の黒色火薬が湿気り易く、長い撃針が焼損して折れる問題と、手入れを怠るとボルトと銃身後端の隙間から高温・高圧の発射ガスが漏れ出す問題は最後まで解決されなかった。 ただし、紙製薬莢はデメリットばかりではなく、水圧プレスなど専用設備を要する金属薬莢の製造に比べて、紙製薬莢はマニュファクチュアレベルの工業水準でも製造が可能であったため、ドライゼ銃を採用した紀州藩では工廠を設置して弾薬の国産化に成功しており、後の西南戦争勃発の時点で日本陸軍は200万発近いドライゼ弾薬の備蓄を有していた。 〕)が後方装備とされ、この他に七連発の米国製スペンサー騎兵銃(リムファイア金属薬莢式〔スペンサー騎兵銃は坂本龍馬のエピソードで有名だが、リムファイア式薬莢を用いるため高腔圧の弾薬が作れず、拳銃弾程度の弱装であるため射程も短く、既に旧式化しつつあった。〕)が騎兵銃として、前装式で旧式化していたエンフィールド銃がスナイドル銃への改造母体および射撃訓練用などに多数が保有されているなど、多種の銃器・弾薬が混在する状況に、日本陸軍は補給や訓練の面で大きな困難を抱えていた。 これらの銃器のうち、最も先進的な構造と優れた性能(射程・弾道特性)を有していたのはシャスポー銃〔シャスポー銃はドライゼ銃と同じく紙製薬莢を使用しながら、ドライゼ銃の欠点の多くを解決し、小口径ながら発射薬の量が多かったため、当時最も優れた弾道特性を有していたが、シャスポー銃に用いられる紙製薬莢はドライゼ銃以上に湿気の影響に弱かった。 また、ドライゼ銃の欠点だったガス漏れを防ぐため、当時はまだ高価だったゴム製のリングを消耗品として使用しており、主力小銃として運用できるだけのゴムリングを確保するためには、フランスやイギリスといった特定のゴム産出国に依存し、高価な消耗品を輸入し続けなければならないという問題があった。 〕であり、村田経芳は新生日本陸軍が幕府陸軍から引き継いだシャスポー銃用の紙製薬莢の製造〔陸軍省大日記 明治5年 「大日記 壬申3月 省中の部 辛」 陸軍省 明治5年3月 「沼津出張 間宮兵学大助教 右之者御用有之候間早々上京有様可分相成候也壬申三月二十八日 山県陸軍大輔 兵学寮 第八百七十九号 記 一金百両也 小銃弾函弐百個 但シ壱函ニ付金弐歩 寸法 堅壱尺五寸壱歩 横六七分 深サ四寸六分 木厚七分 但シ鉄釘打ニ付中函亜鉛板入子外函角ニ里ペッキ塗リ 右ハシャスポー実包弾格護用ニ付当司ニオイテ出来為致度有之御検印被下度候也 申出之通 三月二十六日」 〕や、消耗品であるガス漏れ防止用ゴムリングの調達に腐心〔陸軍省大日記 明治7年 卿官房 12月 兵学寮 第三局 兵学寮 本年十月十九日ハ@第五千六十五号@@シヤスボー銃ゴム般来ニ付可@試験上タ相達@@@@@村田少佐右円流政正之ヲ以更ニ可改試検此上@相達之事 第三局 別紙之通兵学寮相達候条ニ@@@@@会試検可改此上@相返@ 〕するなど、そのメンテナンスに努めており構造も熟知していた。 普仏戦争後の明治7年(1874年)に、フランス本国でシャスポー銃のグラース銃への改造が行われ、シャスポー銃最大の弱点だった紙製薬莢が金属薬莢式に変更されたことを知った村田経芳は、日本陸軍のシャスポー銃を金属薬莢式に改造することと、その国産化を企図し始めた〔この時期、将来的にシャスポー改造グラース銃を日本国内で製造する事を規定路線としながら、当面はスナイドルを使用するとの通達が出されている。 公文別録・陸軍省衆規渕鑑抜粋・明治元年〜明治八年・第十一巻・明治四年〜明治八年 明治7年5月15日 太政官 陸軍省 「東京鎮台歩工兵携帯銃シャスポー製作未整ヲ以テ姑クスナイトル銃ヲ以テ備付ト為ス 達東京鎮台 其台歩工@兵携帯銃シャスポート相定候ニ付テハ春@於造兵司@修理@店候@@@他@至為製作ノ品多分有之ヨリ右銃小ノ半ハ出来ニ至兼@付@延ニ及ヒ不都合ニ付当分「スナイトル」銃ノ以テ備付候条此旨相達候事 但「スナイトル」銃@@属品不足有之一時悉旨@付@難相成漸々取揃相渡一筈@候事衆規@鑑」 〕。 明治8年(1875年)に村田経芳は射撃技術と兵器研究のためフランス、ドイツ、スウェーデンなどの欧州留学に赴き、シャスポー改造グラース銃を国産化する準備を開始するが、帰国すると郷里の鹿児島で西南戦争が勃発した。 決起した西郷軍には戊辰戦争を経験した多くの元薩摩藩兵・日本陸軍軍人が参加しており、日本陸軍は徴兵で集められた鎮台兵を大量投入して鎮圧を図ったため、忽ち主力小銃であるスナイドル銃の在庫が足りなくなる事態〔各鎮台から西南戦争へ派遣される事になった兵のうち、ドライゼ銃(ツンナール銃)を支給されていた兵は、弾薬補給統一のためにスナイドル銃を新たに支給されてから九州へ派遣されていた。 陸軍省大日記 明治10年 「大日記砲兵工兵の部12月木陸軍省第1局」 陸軍省 明治10年12月 「砲六百〇二号 大阪鎮台@歩兵第十連隊一大隊第一中隊従前携帯シスナイトル@出征之際ツンナール@@交換其兵@別紙之通@帰之数@返納之義伺出@此旨相達候事 十年十二月二十二日 陸軍卿山県有朋 砲兵支廠 別紙ハ〜」 陸軍省大日記 明治11年 「大日記鎮台の部 2月木乾 陸軍省第1局」 陸軍省 明治11年2月12日 「東四十八号 其@歩兵第二連隊第二大隊之内三中隊昨年@大阪鎮台@携帯スナイトル致ツンナール銃与交換出征@戦地ヨリ@ニ本営へ引揚@付@引渡方@五第三千十七号大阪鎮台伺出@之通及指令候条@心得此旨相達候事 明治十一年二月十二日 陸軍卿山県有朋 東京鎮台 別紙@大九十四号」 しかし、途中からスナイドル銃のストックがなくなり、そのまま派遣される兵が存在していた事も記録されている。 陸軍省大日記 明治11年 「大日記6管鎮臺の部 4月末乾 陸軍省第1局」 陸軍省 明治11年4月 「五@千六百三十一号 第三伸@法@十九号 甲第三十二号 大二百十九号 元遊撃歩兵第五大隊出征用兵器彈薬返納之義ニ付伺 十年和歌山県臨時召募元遊撃歩兵第五大隊昨十二月解隊返納兵器彈薬@別紙甲乙二表之通有之御召表中持帰ノ分返納@之度此段相伺候也 明治十一年四月十五日 大阪鎮台司令長官 陸軍少将三好重臣代理 陸軍少佐高島信茂 陸軍卿山県有朋 伺之通 四月三十日 元遊撃歩兵第五大隊出征持出ノ兵器弾薬之内凱旋返納員数 長ツンナール銃 同剣 同屓革 同弾薬合 同帯革 同剣差 同胴ノ金物 同又字金 同接脱金 同鍼」 〕が発生した。 これを絶好の機会と見た村田経芳は、フランスでその改造工程を実見したシャスポー改造グラース銃を参考に、金属薬莢式に改造したシャスポー銃を自ら試作し、ドイツの企業を下請けにして陸軍が退蔵しているシャスポー銃の改造作業を行い、実戦配備する事を計画〔陸軍省大日記 「大日記 省内各局参謀近衛病院 教師軍馬局 3月水 陸軍省第1局」 陸軍省 明治10年3月7日 「参第四百五十五号 第三伸天四十八号 至急 局第二百七十号 改造銃代価積り問合之儀二付伺 村田少佐試シ改造之シヤスポー銃独逸国@代価積り問合申度二付アーレンス社より談判為度就而者右十同人より御渡相成度此段相伺候也 十年三月七日 第三局長代理陸軍大佐原田一道 陸軍卿代理陸軍中将西郷従道殿 伺之通 三月七日」 〕した。 しかし、この計画が実行に移される前に、日本陸軍はスナイドル弾薬の確保に辛うじて成功し、村田経芳自身も狙撃の腕を見込まれて西南戦争へ送られ、そこで負傷してしまった。 西南戦争は日本陸軍の勝利で終結したが、歳入のほとんどを戦費に使い果たした日本政府は財政難に陥り、陸軍も新小銃の国産化よりエンフィールド銃のスナイドル銃への改造を優先させたため、村田経芳のシャスポー銃改造計画は凍結された。 しかし、この凍結が怪我の治療を終えた村田経芳に時間の余裕を与え、シャスポー改造グラース銃を一部簡略化した設計で試作を始めた村田は、明治13年(1880年)に至り、ついに国産小銃の製造に成功した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「村田銃」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|