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村越 三千男(むらこし みちお、1872年4月20日(明治5年3月13日)〔俵 (1999) p.76〕 - 1948年4月〔俵 (1999) p.142〕)は、日本の博物学者、教育者。特に牧野富太郎『日本植物図鑑』と同時期に刊行した『大植物図鑑』の著者として知られる。また他にも動物図鑑や昆虫図鑑の編集も行なっている。 == 略歴 == 1872年、埼玉県に生まれた〔。埼玉師範学校を卒業し、埼玉県立浦和高等女学校(現:埼玉県立浦和第一女子高等学校)、旧制埼玉県立熊谷中学校(現:埼玉県立熊谷高等学校)を歴任し、植物学と絵画を指導した〔俵 (1999) p.77〕。1905年(明治38年)までは教師として勤務していたが、その後退職して上京。教師時代に動植物の教育水準が低いことを懸念していた村越は、埼玉師範学校時代の同級生である高柳悦三郎(のちの埼玉県立久喜高等女学校校長)らと東京博物学研究会を立ち上げ、植物学のテキストとなる図鑑の発行を計画した〔俵 (1999) p.78〕。 1906年(明治39年)から、牧野富太郎の協力を得て『普通植物図譜』(村越三千男画・高柳悦三郎編・牧野富太郎校訂)の刊行を始めた〔俵 (1999) p.79〕。これは月一回のペースで発行されたが、最終的に全5巻60集まで発行され、全5巻に編集された版と抜粋版もそれぞれ刊行されている〔俵 (1999) p.80〕。 その後も牧野の校訂を受けて『野外植物の研究』(1907)、『植物図鑑』(1908)などを発行していくが、参文舎の社長が死去したことに伴い同社の経営が悪化、それによって『植物図鑑』の版権が北隆館に移ることとなった〔。この後北隆館が同図鑑を発行する際に、東京博物学研究会の代表者として掲載されていた村越の名が消され、徐々に牧野とも関係が離れていくこととなった〔俵 (1999) p.85〕。 その後村越は独自に植物図鑑を出版する計画を立て、1924年に『図解植物名鑑』を刊行、さらに次年の1925年には『大植物図鑑』を刊行した。『大植物図鑑』には、松村任三、丹波敬三、本多静六の3人が序を寄せ、その内容を称賛した〔俵 (1999) p.90〕。一方『日本植物図鑑』の改訂版を同時期に計画していた北隆館は、『大植物図鑑』に遅れを取らないために、牧野が満足に改訂できていない段階で1925年に『牧野日本植物図鑑』を刊行〔俵 (1999) p.89〕。しかし多数の誤植や内容の誤りがあり、34ページにわたる正誤表が付けられた〔。 村越はその後も、持ち運びのしやすさを重視した『集成新植物図鑑』(1928年)、多数の原色図版を用いた大型版『内外植物原色大図鑑』(全13巻、1933-1935年)など、多様なニーズに合わせた植物図鑑の刊行を続けた〔俵 (1999) p.137〕。一方、新種の記載など植物学に関する研究成果を公表することはなく、もっぱら図鑑編集に携わっていた〔俵 (1999) p.141〕。 1948年(昭和23年)に死去。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「村越三千男」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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