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村野 常右衛門(むらの つねえもん、1859年8月23日(安政6年7月25日) - 1927年(昭和2年)7月30日〔『日本近現代人物履歴事典』517頁。〕)は、明治から大正期の政治家、自由民権運動家、実業家。衆議院議員、貴族院勅選議員。幼名・磯吉〔。 == 経歴 == 武蔵国多摩郡野津田村〔#村野常右衛門 57頁。〕(現在の町田市域)で地主・村野常右衛門(4代目)の長男として生まれる〔。明治元年(1868年)に父が死去し、明治2年(1869年)に家督を相続し常右衛門(5代目)を襲名。大谷村(現・町田市南大谷)の清水塾、野津田村の智新学舎、真下晩菘の融貫塾、耕余塾で学んだ〔#村野常右衛門 57-58頁。〕。 1878年5月、結社責善会の結成に参加〔#村野常右衛門 58-59頁。〕。1880年8月、野津田村戸長となり南多摩郡政の刷新に取り組む。1881年6月、神奈川県会議員選挙において、南多摩郡役所が選挙人名簿の調製を怠り有権者を誤った状態で選挙を執行したことを追及し、佐藤俊正郡長を辞職に追い込んだ。郡政刷新の目的を果たした村野は、翌月戸長を辞職した〔〔#村野常右衛門 60-62頁。〕。 1881年11月、石坂昌孝らと政治結社「融貫社」を結成し自由民権運動に加わる。1882年7月、融貫社を解散して自由党に入党した〔〔#村野常右衛門 62-63頁。〕。1883年5月、野津田村に文武館凌霜館を設立し青年民権家の育成に取り組む〔#村野常右衛門 64頁。〕。1885年、大井憲太郎の朝鮮革命計画に加わるが、計画が発覚し(大阪事件)逃亡後、1886年1月、横浜警察署に自首した。1887年9月、大阪臨時重罪裁判所で軽禁固1年・監視10か月の第一審判決を受け和歌山監獄に収監された。1888年9月、刑期を終えて出獄した〔〔#村野常右衛門 66-73頁。〕。 1889年4月、鶴川村会議員に選出され、同年11月、神奈川県会議員補欠選挙に当選し1891年2月に辞任〔〔#村野常右衛門 126頁。〕。1898年8月、第6回衆議院議員総選挙に東京府第13区で憲政党から出馬し当選。以後、第13回総選挙まで連続8回の当選を果たした〔『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』641頁。〕。1922年6月6日、貴族院勅選議員に任じられ〔『官報』第2953号、大正11年6月7日。〕交友倶楽部に属して死去するまで在任〔『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』171頁。〕。政友会院内幹事、同幹事長も務めた〔。 また、横浜倉庫専務取締役、自由通信社社長、満州日日新聞社社長などを歴任した〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「村野常右衛門」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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