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得居 通幸(とくい みちゆき、弘治3年(1557年) - 文禄3年(1594年)1月末から2月初めに推定〔山内譲「海賊衆得居通幸の死」1997年〕)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。伊予国の海賊衆。村上通康の子、来島通総の兄。別名については通之・通久・通年がある(後述の名前についてを参照)。 ==経歴== 村上水軍の一族である来島村上氏当主・通康の長男として生まれるが、後に得居家の跡を継いだ〔南北朝時代の伊予の名門土居氏と得能氏の子孫であると称して、得居姓を名乗った〕。来島村上氏の名跡は四弟の通総が継いだが、これは通総の生母(河野通直娘)が通康の正妻で主家筋の河野氏出身の娘であったため、家督を相続したものと考えられてる。永禄10年(1567年)、父の通康が病死したため、通総が7歳の若さで家督を継ぐと、これを補佐した。 天正6年(1578年)から天正8年(1580年)頃に伊予国松山の島嶼にある鹿島城主になったと考えられ、家臣達を悉く鹿島(現在の松山市沖)へ渡らせている。天正10年(1582年)4月に織田信長の配下として中国攻略にあたっていた羽柴秀吉(豊臣秀吉)の調略を受け、来島本家の当主である弟の通総と共に旧主河野氏から離反して織田方についた。この離反の課程で来島家の家老であった村上吉継、村上吉郷らは河野氏側に残って分裂し、裏切りを知った河野氏も毛利氏の協力を得て来島氏の攻撃を開始した。5月には能島村上氏の村上武吉・村上元吉親子を尖兵にして来島勢力に向けて攻撃を続けた。天正11年(1583年)3月には攻撃に耐えかねた通総が秀吉の元に脱出し来島方面への攻撃が一段落し、通幸の守る鹿島へ攻撃が指向されるようになり、通幸は毛利・河野連合軍が四国側の来島勢力を削いで行く中で鹿島城に籠城して守り抜き、8月以降は鹿島城を巡る戦闘が見られなくなった。 天正12年(1584年)になると一時は秀吉の元に駆け込んでいた通総の再進出が10月には現実となり、11月には忽那島周辺で海賊行為を始めた。秀吉の四国方面への圧力が激しくなる中で天正13年(1586年)2月には通総の帰国が毛利輝元や小早川隆景に容認されることとなった。8月に秀吉の四国攻めが始まるとかつては敵対したこともある小早川隆景・吉川元長などの軍勢を伊予方面で先導した。戦後の四国国分では主家の通総が1万4,000石に封じられた他に通幸にも3,000石が与えられた。その後も九州征伐・小田原征伐・文禄の役にいずれも豊臣氏配下の船手衆として参戦した。 文禄3年(1594年)1月末から2月初めの頃に朝鮮水軍の戦いで戦死した。後嗣がないため跡目は本家の通総に加えられた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「得居通幸」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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